毎年お世話になっているイベントのお仕事もいよいよ明日から本番という7月26日の夕方。
その日の仕事が終わった直後、車中で諸連絡をしていると、私の実家から着信があった。普段はあまり会社や私の携帯に連絡してこない親父からである。少々気になり、自宅に折り返しの電話をしたが繋がらない。
ますます気になり、親父の携帯に電話すると「マイッタ。おっかあ、明日までもたないかも・・・」「・・・あんっ?」
ほぼ寝たきりになっていた母は、ちょうど1週間前に再入院していました。
業務連絡をしつつ今度は妻や身内への連絡と、仕事が増えてしまった。その場に留まること1時間あまり。一段落ついたところで、事務所に向かいました。
母の容態については、昨年末か今年のはじめくらいに親父から聞いていたせいか、今考えると焦る気持ちはあまりなかったような気がします。ただ、事務所へ戻っても溜まっていた仕事に手を付ける気になれず、そのまま自宅に帰りました。一年で最も忙しい時期、月末近し!・・・参ったなぁ。
いただいていた仕事も調整していただき、家内の仕事、子ども達のバイトやクラブのスケジュールにも都合をつけてもらい、家族全員で実家へ帰ることにしました。
家内に全員分の身支度をお願いしているところで、「ねぇ、喪服ってどうする?」と家内。「・・・だよね。一応持っていこうか・・」これまで、幸いにも?このような状況に直面したことはありませんでしたが、「いよいよかぁ・・・」
実家へは車で7時間ほどの道のり。ちょっと様子を、というわけにもいきません。数日分の着替え等を車に積み込むと、「あんた疲れてるでしょ!」と家内が運転を買って出てくれた。いざという時は頼れる妻。
21:00すぎに自宅を出発。夕食はコンビニ派とマック派に別れて買い物。移動飯で一路実家へ。私は助手席でボーッと考え事をしつつ、1時間ほど走ったあたりですっかり寝ていたようだ。気づくとそこは福島県にある鏡石PA。もし1人だったらどうなっていたことか・・・「お母さんより先に、あんたが仏様になるとこだったんじゃない?」と家内。おっしゃるとおり。
さらに走ること2時間、運転する家内にも限界が近い。子ども達は爆睡中。高速を下りる手前で選手交代。「間に合うかな・・・とりあえず病院へ向かうから。」
去年、一昨年は諸事情も重なり、何度も走った故郷への道のり。今年は正月以来となる。途中で、家内も眠りの神様に連れていかれてしまい、私は黙々と運転。病院へ到着したのは朝の4時。母の様子はどうだろう?
「夜中にすみません!母が危篤ということで来たのですが、面会できますか?」と夜間出入口の受付で訪ねると、「ご苦労様です!西棟の466号室です。」と宿直の警備員さんが教えてくれました。
静まり帰った病院の中、「ピタッ!ピタッ!ピタッ!」と、子ども達のサンダルの音が響く。「シィー!」「コントじゃないんだから!」と注意。
病棟のナースセンターで「息子ですが、466号室の・・・」と改めて話をし、病室へ向かう。「・・・ここだ!」「コンコン」と軽くノックをして静かにドアを開けてみましたが、大きな個室はもぬけの殻。もう一度部屋番号を確かめるが間違いはない。
「間に合わなかったか・・・」
慌ててナースセンターにもどり、「母は・・・?」と訪ねると、「あれ?ちょっと待って下さい。」と看護婦さん。ドキドキしながら待っていると、「昨日、665号室に移ってますね。」とのこと。実は、急な入院で病室が空いておらず、やむなく特別個室に入っていたが、昨日隣の病室が空いたので、移っていたらしい。前で待たせていた家族に、「隣に移ったらしい・・・665だって。」ドラマの見過ぎか、すっかりコント。
気を取り直して、隣の病室へ。「お?!早かったね。」そこには付き添ってくれていた叔母と従姉妹。「どうですか?」の問いに、「眠ってる。」と叔母。2日前から容体が急変した母は、強い薬を投入し始めたため、目を開けているのもままならない。今は安定しているが、薬をもっと強くしていくと、もう目を開けることもできなくなると聞かされていました。
病室の奥には、酸素マスクをつけてベッドに横たわる母の姿。のぞきこむと少し苦しそうではありましたが、ちゃんと息をしていました、ほっ。と、「息子が帰ってきたよ!」と叔母が母を起こしてくれ、母がうっすら目を開けた。「お待たせ!今帰ったよ。」「わかる?」と私が話しかけると、わずかに頷いた。もう喋る力も母にはありませんでしたが、家内や子ども達も話しかけ、無事対面を果たすことができました。
続きを書いていいものでしょうか?機会がありましたら、またその時に。
それから3日後。平成24年7月30日午後8時03分、母が永眠しました。享年83。
広報委員Kより
その日の仕事が終わった直後、車中で諸連絡をしていると、私の実家から着信があった。普段はあまり会社や私の携帯に連絡してこない親父からである。少々気になり、自宅に折り返しの電話をしたが繋がらない。
ますます気になり、親父の携帯に電話すると「マイッタ。おっかあ、明日までもたないかも・・・」「・・・あんっ?」
ほぼ寝たきりになっていた母は、ちょうど1週間前に再入院していました。
業務連絡をしつつ今度は妻や身内への連絡と、仕事が増えてしまった。その場に留まること1時間あまり。一段落ついたところで、事務所に向かいました。
母の容態については、昨年末か今年のはじめくらいに親父から聞いていたせいか、今考えると焦る気持ちはあまりなかったような気がします。ただ、事務所へ戻っても溜まっていた仕事に手を付ける気になれず、そのまま自宅に帰りました。一年で最も忙しい時期、月末近し!・・・参ったなぁ。
いただいていた仕事も調整していただき、家内の仕事、子ども達のバイトやクラブのスケジュールにも都合をつけてもらい、家族全員で実家へ帰ることにしました。
家内に全員分の身支度をお願いしているところで、「ねぇ、喪服ってどうする?」と家内。「・・・だよね。一応持っていこうか・・」これまで、幸いにも?このような状況に直面したことはありませんでしたが、「いよいよかぁ・・・」
実家へは車で7時間ほどの道のり。ちょっと様子を、というわけにもいきません。数日分の着替え等を車に積み込むと、「あんた疲れてるでしょ!」と家内が運転を買って出てくれた。いざという時は頼れる妻。
21:00すぎに自宅を出発。夕食はコンビニ派とマック派に別れて買い物。移動飯で一路実家へ。私は助手席でボーッと考え事をしつつ、1時間ほど走ったあたりですっかり寝ていたようだ。気づくとそこは福島県にある鏡石PA。もし1人だったらどうなっていたことか・・・「お母さんより先に、あんたが仏様になるとこだったんじゃない?」と家内。おっしゃるとおり。
さらに走ること2時間、運転する家内にも限界が近い。子ども達は爆睡中。高速を下りる手前で選手交代。「間に合うかな・・・とりあえず病院へ向かうから。」
去年、一昨年は諸事情も重なり、何度も走った故郷への道のり。今年は正月以来となる。途中で、家内も眠りの神様に連れていかれてしまい、私は黙々と運転。病院へ到着したのは朝の4時。母の様子はどうだろう?
「夜中にすみません!母が危篤ということで来たのですが、面会できますか?」と夜間出入口の受付で訪ねると、「ご苦労様です!西棟の466号室です。」と宿直の警備員さんが教えてくれました。
静まり帰った病院の中、「ピタッ!ピタッ!ピタッ!」と、子ども達のサンダルの音が響く。「シィー!」「コントじゃないんだから!」と注意。
病棟のナースセンターで「息子ですが、466号室の・・・」と改めて話をし、病室へ向かう。「・・・ここだ!」「コンコン」と軽くノックをして静かにドアを開けてみましたが、大きな個室はもぬけの殻。もう一度部屋番号を確かめるが間違いはない。
「間に合わなかったか・・・」
慌ててナースセンターにもどり、「母は・・・?」と訪ねると、「あれ?ちょっと待って下さい。」と看護婦さん。ドキドキしながら待っていると、「昨日、665号室に移ってますね。」とのこと。実は、急な入院で病室が空いておらず、やむなく特別個室に入っていたが、昨日隣の病室が空いたので、移っていたらしい。前で待たせていた家族に、「隣に移ったらしい・・・665だって。」ドラマの見過ぎか、すっかりコント。
気を取り直して、隣の病室へ。「お?!早かったね。」そこには付き添ってくれていた叔母と従姉妹。「どうですか?」の問いに、「眠ってる。」と叔母。2日前から容体が急変した母は、強い薬を投入し始めたため、目を開けているのもままならない。今は安定しているが、薬をもっと強くしていくと、もう目を開けることもできなくなると聞かされていました。
病室の奥には、酸素マスクをつけてベッドに横たわる母の姿。のぞきこむと少し苦しそうではありましたが、ちゃんと息をしていました、ほっ。と、「息子が帰ってきたよ!」と叔母が母を起こしてくれ、母がうっすら目を開けた。「お待たせ!今帰ったよ。」「わかる?」と私が話しかけると、わずかに頷いた。もう喋る力も母にはありませんでしたが、家内や子ども達も話しかけ、無事対面を果たすことができました。
続きを書いていいものでしょうか?機会がありましたら、またその時に。
それから3日後。平成24年7月30日午後8時03分、母が永眠しました。享年83。
広報委員Kより