4月9日(土)20:43、祖母、永眠しました。享年93歳。
その日のお昼位に、眠ったままの祖母に会いました。
とても息苦しそうだったけど、呼吸は力強く。声をかけながら腕をさすったら、「はぁー」と声を出した祖母。ちゃんと私の声が届いて返事してくれたと思った。だってその後も、周りでしゃべる言葉に返事をするように声を出していました。
帰り際、祖母のほっぺたを「また来るね。」と撫でたら、急に目頭が熱くなり、涙が出ました。
もっと祖母とたくさん話をすれば良かったと、悔やむ涙かな。
私が生まれて間もなく、父の仕事上、母の実家の近くに住んでいました。そのため、母方の祖父にはしょっちゅう会っていたのですが(母方の祖母は私が3歳の頃に亡くなっています)、父の実家は登米郡東和町(今は登米市東和町)だったので、年に1~2回、夏休みや冬休みを利用して会いに行くくらい。
そんな訳だから、あまり父方の祖父母にはなつかない孫でした。子供心に、祖父母にどう接していいのか、何を話したらいいのか分からなくて、気まずく思っていました。父は長男でしたので、祖父母にとって初孫の私。今更ですが、祖父母不孝な孫だったと反省です。私の名前は父方の祖父が名付けてくれたのに。
父方の祖父は、私が高校生の時に亡くなり、その後、一人で暮らしていた祖母。
その祖母、当時としては珍しく女学校を卒業し、デパートの宝石店に勤めたそう。そんなしっかりしていた祖母が、これまた当時としては先駆けて、認知症になりました。ちょうど「恍惚の人」のテレビが話題になってたなぁ。テレビでの演技が、そのまま祖母の症状でした。少しずつ、でも確実に祖母じゃなくなっていくのが、怖いような哀しいような。突拍子もないことをして、驚くより呆れてしまったり。
当時はこの先どうなるんだろうと不安でしたが、今は懐かしい思い出となっています。私は孫だからそう言っていられるけど、母にしたら大変だったことと思います。とにかく母が介護で参ってしまわないかと心配でしたから。でも父がホントにいろんな事をする人なので、母の負担はいくらか軽かったのではないかと思います。
父は率先して祖母の面倒を見ていました。よく祖母を茶化して、介護の苦労を笑い話にもしていました。
一緒に暮らしたのが認知症になりかけてからだったけど、その頃は私も大人になり、気後れすることなく、祖母と話をすることが出来ました。
女学校時代、仕事に就いた時の話、満州から引き揚げてきた時の話等を、つい最近のように(笑)話してくれました。
さて、その祖母の目に、私は孫として映っていたのかしら?(^^ゞ
震災の影響で、亡くなってすぐには火葬が出来ず、亡くなった日から通夜&告別式まで10日間、実家に安置されていた祖母。毎日、葬儀屋さんがドライアイスを交換しに来て下さったので、本当に火葬するまで、亡くなった時のまま、綺麗な顔をしていました。
通夜&告別式は、ごくごく身内だけで執り行いましたが、それでも、近所の方や、父、母の知人の方が参列してくださいました。
3日間会社を休ませてもらい、母の手伝いをしました。
滞りなく葬儀は終わりましたが、葬儀後もポツリポツリと弔問客が来られるので、土日も手伝って欲しいと母親に頼まれ、先生には本当に申し訳ないのですが、またまたレッスンをお休みしたいと連絡。
程なく了解メールをいただいたのですが、先生はチャリティーコンサートの帰り道だったようです。お忙しい中だったようなので、先生も少しお休み出来たらいいな、と思いました。
次回のレッスンは未定。
私の状況が落ち着いたら連絡を差し上げることになりました。
その日のお昼位に、眠ったままの祖母に会いました。
とても息苦しそうだったけど、呼吸は力強く。声をかけながら腕をさすったら、「はぁー」と声を出した祖母。ちゃんと私の声が届いて返事してくれたと思った。だってその後も、周りでしゃべる言葉に返事をするように声を出していました。
帰り際、祖母のほっぺたを「また来るね。」と撫でたら、急に目頭が熱くなり、涙が出ました。
もっと祖母とたくさん話をすれば良かったと、悔やむ涙かな。
私が生まれて間もなく、父の仕事上、母の実家の近くに住んでいました。そのため、母方の祖父にはしょっちゅう会っていたのですが(母方の祖母は私が3歳の頃に亡くなっています)、父の実家は登米郡東和町(今は登米市東和町)だったので、年に1~2回、夏休みや冬休みを利用して会いに行くくらい。
そんな訳だから、あまり父方の祖父母にはなつかない孫でした。子供心に、祖父母にどう接していいのか、何を話したらいいのか分からなくて、気まずく思っていました。父は長男でしたので、祖父母にとって初孫の私。今更ですが、祖父母不孝な孫だったと反省です。私の名前は父方の祖父が名付けてくれたのに。
父方の祖父は、私が高校生の時に亡くなり、その後、一人で暮らしていた祖母。
その祖母、当時としては珍しく女学校を卒業し、デパートの宝石店に勤めたそう。そんなしっかりしていた祖母が、これまた当時としては先駆けて、認知症になりました。ちょうど「恍惚の人」のテレビが話題になってたなぁ。テレビでの演技が、そのまま祖母の症状でした。少しずつ、でも確実に祖母じゃなくなっていくのが、怖いような哀しいような。突拍子もないことをして、驚くより呆れてしまったり。
当時はこの先どうなるんだろうと不安でしたが、今は懐かしい思い出となっています。私は孫だからそう言っていられるけど、母にしたら大変だったことと思います。とにかく母が介護で参ってしまわないかと心配でしたから。でも父がホントにいろんな事をする人なので、母の負担はいくらか軽かったのではないかと思います。
父は率先して祖母の面倒を見ていました。よく祖母を茶化して、介護の苦労を笑い話にもしていました。
一緒に暮らしたのが認知症になりかけてからだったけど、その頃は私も大人になり、気後れすることなく、祖母と話をすることが出来ました。
女学校時代、仕事に就いた時の話、満州から引き揚げてきた時の話等を、つい最近のように(笑)話してくれました。
さて、その祖母の目に、私は孫として映っていたのかしら?(^^ゞ
震災の影響で、亡くなってすぐには火葬が出来ず、亡くなった日から通夜&告別式まで10日間、実家に安置されていた祖母。毎日、葬儀屋さんがドライアイスを交換しに来て下さったので、本当に火葬するまで、亡くなった時のまま、綺麗な顔をしていました。
通夜&告別式は、ごくごく身内だけで執り行いましたが、それでも、近所の方や、父、母の知人の方が参列してくださいました。
3日間会社を休ませてもらい、母の手伝いをしました。
滞りなく葬儀は終わりましたが、葬儀後もポツリポツリと弔問客が来られるので、土日も手伝って欲しいと母親に頼まれ、先生には本当に申し訳ないのですが、またまたレッスンをお休みしたいと連絡。
程なく了解メールをいただいたのですが、先生はチャリティーコンサートの帰り道だったようです。お忙しい中だったようなので、先生も少しお休み出来たらいいな、と思いました。
次回のレッスンは未定。
私の状況が落ち着いたら連絡を差し上げることになりました。