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映画・演劇のレビュー

KUTO-10『あたらしいなみ』

2017-03-15 02:00:12 | 演劇
今回の工藤さんは、なんと台本にサカイヒロト、演出に樋口ミユという大胆な布陣を敷いた。これはすごい冒険だ。まず、このコンビの芝居が見られるというだけで、うれしい。それをKUTO-10でするというのだから、もっとうれしい。十分ありえたはずの、でも、今までなかったこの組み合わせが、工藤さんのもとで、どういう化学反応を起こすのかを楽しみにして劇場に向かう。



予想通りの妥協のない芝居だった。ふたり(もちろんサカイ、樋口組)は不器用だから、自分のやり方を変えない。というか、工藤さんが、ふたりが自分に合わせることを嫌ったのだろう。そうじゃなくては冒険にはならないからだ。ただ主人公3人のキャスティングは工藤さん好みのものだろう。50代の3人の男たちと、若手を絡ませるというのもパターンだがいい。



30年以上前に撮った8ミリ映画は未完成なまま、失われてしまった。監督をしていた先輩も行方不明になった。大学時代の映研の頃と、30数年後の今の彼ら。ふたつの時間は交錯していく。この設定なら、十分にセンチメンタルでノスタルジックなお話にもなる。しかし、そうはしない。惨めで不格好な現在の彼(工藤俊作)と、あの頃の若くて元気だった彼(うえだひろし)。いつまでもあの頃の記憶に囚われ続ける男と、あの頃も今もちゃんと彼の横にいて、ずっと見守り続けてくれる友人と彼女。幻になった先輩を今も追いかけ続ける。



今と違って映画がもっと遠くにあり、手の届かなかった時代。8ミリという、身近な、でも、学生には高価なフィルム。そうなのだ。映画はフィルムという貴重で有限なもので作られていた。8ミリは1本が3分20秒。それが当時の価格で1000円以上もした。さらには現像にも600円くらいかかる。デジタルになって、湯水のように撮影できるし、消去もできる今の時代には考えられないことだろう。フィルムを回すことは命を削るように大変なことだった。失敗は出来ない。



とても観念的な芝居になった。75分という短い作品なのに、まるで永遠に続く悪夢をみているような。フィルムの中に刻まれたもの。あの映画はもうどこにもない。自分たちの手で完成させることはできない。先輩の思いの丈だけで作られたものだからだ。しかし、そこにはあの頃の自分たちの想いもまた、つまっている。あの頃彼らが共有していたもの。本当に?



ファインダー越しに見た風景、その映像。記憶。1本につながっていくフィルムは映画というひとつの物語を作りあげるはずだった。1人の想いの中にある幻をフィルムとして定着させること。そんなことはできない。あの頃、見たもの、見ようとして、もがいていたものは、もうどこにもない。なのに、人は今も生き続けなくてはならない。



昔、佐藤忠男の『ヌーベルバーク以後』という新書を教科書のようにしてむさぼり読んでいたことがある。リアルタイムでヌーベルバークを体験していない世代だった高校生の僕はそこに何を見ようとしていたのだろうか。そんなことを思い出しながら、この芝居を見た。見ていないもの、もう見ることもかなわないもの、を求め続けること。この芝居の描く今という時間が愛おしい。
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