深津演劇祭の開幕である。この作品をは皮切りにして1年以上の長きにわたり、11団体12作品が上演される。深津さんが亡くなられて、2年。この夏、深津セレクションとして3巻仕様で彼の主要な全仕事を網羅する作品集が刊行された。それと連動してこの演劇祭が始まる。
コンブリ団の主宰、はしぐちしんがその先頭を切るのはふさわしい。しかも、演出がはしぐちさんではなく、ジャブジャブサーキットのはせひろいち。この布陣で『カラカラ』を上演するなんて、とんでもない豪華さ。短編である『カラカラ』はその後改訂されて何度か上演されている。長編バージョンもある(はずだ)。だが敢えて今回は短編に挑む。
40分ほどの作品を1本で上演するというのはかなりの英断だ。本当なら興行は成り立たない。短編2本とか、3本抱き合わせで上演するのがふつうであろう。だが、はしぐちさんはそうはしない。彼なりに覚悟をそこに感じる。作品は短編であるとも長編であろうともひとしく1本の完結した世界を提示する。その完成度を重視したい。40分に籠められたものを大切にしよう。そんな意志だ。それを受けて演出のはせさんは、剛速球を投げない。いつものように、いや、いつも以上に肩の力の抜けた作品にした。重くて暗い。よくわからない。ふつうこの作品を上演したなら、そんな作品になる。そこにこそ、この極限状況を生きた彼らの今があるからだ。しかし、震災から21年が過ぎ、その間に3・11さえ経験した我々にとって、今、この作品を上演する時、重くて暗い部分をそのままには出来ない。はせさんが取った選択は、オリジナルの忠実な再現ではなく、ある種の距離感だ。風化ではない。我々はあの事を忘れるわけがない。だが、あの事を今描く上で大切なものは、生きていこうとする強い意志だ。恐怖と不安の中で過ごす時間。余震が続く被災地の避難所。見知らぬ人たちが肩を寄せ合い過ごすどうしようもない孤独な時間。それぞれが、それぞれの内面を押し隠して平穏なふりをして、過ごす。ほんのちょっとした時間のスケッチだ。
大きなドラマや、テーマを前面に出すことはない。そんなことは、あの時不可能だった。何が何だかわからない現実にふりまわされて、でも、何もできず無力を噛み締めた。この明るい虚無感こそ、あの時の気持ちである。独立した1本の作品として上演するという選択は、この作品の持ち味を十二分に生かしたものだ。この上演スタイルにきっと深津さんは喜んでいる。
同時上演された(というか、アクターイベントなのだが)「深津戯曲を読む」という試みもおもしろい。ちゃんと終演後10分の休憩を入れて、ゲストに深津戯曲の中から気に入った作品の好きな部分をリーディングしてもらう。その後、はしぐちさんの司会で、はせさんも交えて取り上げた戯曲のこと、『カラカラ』のこと、深津さんのことを話してもらう。それは、よくある(おまけとしての)アフタートークとは趣を異にした独立したイベントとして企画された。僕が見たこの回は、遊劇体のキタモトマサヤさんがゲストだった。
深津、はせ、キタモトの3者が並ぶなんて、なんだか感慨深い。彼らのコラボは今まで何度となく(といっても、ほんの数回だけど、それがそれぞれ印象深いし、画期的だったから、記憶の鮮明だ)なされている。こんな形で今、再び3人がそろい踏みした光景を目撃出来てうれしい。
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