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映画・演劇のレビュー

May『モノクローム』

2016-12-20 22:18:09 | 演劇
今回金哲義さんは「映画」を題材に選んだ。だが、それを「失われたもの」という普遍的なものへと還元する。いや、まだ失われてはいない。だが、もうすぐに完全に過去になる。そんなものとして映画を取り上げる。彼らしい。



昭和30年代。映画の黄金期。その影で失われていくもの。戦時中、戦意高揚映画に出演しパージされた大物女優。彼女をもう一度銀幕に復帰させようとした人たち。失われていたフィルム。



今、映画はデジタル化してもうフィルムでは撮られなくなった。映画館もシネコンになり、個人商店のような映画館はほぼ姿を消した。ほんの数年ですべてが変わっていき、忘れられていく。それは「映画」だけのお話ではない。



そんな時代にあって、たぶん最後のフィルム映写技師となる青年と、朝鮮学校ではなく、日本の高校に通う覚悟をした少女が、映画を通して出会う。そんなふたりのラブストーリーにしたなら、とてもわかりやすい芝居になったはずだ。だが、金哲義はそうはしない。複雑に絡み合ったさまざまな人たちの思惑や、想いをそこにいくつも交錯させて見せていく。



お話の中心に、今と、昭和30年代、その二つの時間を設定した。失われていた幻の映画が発見され、上映される。そのささやかな事件を通して、小さな町の映画館の人たちと、ある朝鮮人の家族を描く。その1本の幻の映画が彼らをつなぐ。劇場に年老いたその映画の監督が舞台あいさつのためにやってくる。もうずっと以前に引退して、表舞台から消えていた彼が、悔恨の残るその作品ともう一度対面することで、封印してきたあの頃がよみがえってくる。それはもちろん彼ひとりの問題ではない。そのモノクロームの映画の中の3人の役者たち。彼らの姿を通して、あの時代がよみがえる。



さらには、そこに封印されたエキストラとして出演したはずの若かりし日の少女の祖父。銀幕のなかで手を振る腕まくりをした少年(もちろん、木場夕子さんが演じる!)が彼女の祖父だ。



フィルムの6コマ。0・25秒の中にいた少女の祖父。切り落とされたフィルム。映画の1秒は24コマだ。その積み重ねの先に映画はあった。そんな時代。形のある映画が形のないデジタル映像になったとき、100年以上に及ぶ映画の歴史は誰にも知られぬまま閉じられたのかもしれない。歴史の中で消えていくひとりひとりの想い。金哲義が描こうとしたものはそこに尽きる。



ピンポイントで題材と取り組む。今回も「映画」を描くために、シネヌーヴォーという小さな劇場に拘った。取材を通して、今、映画が消えていくという事実を再認識した。だからこそ彼は、今、映画だと、もう一度、思った(はずだ)。蘊蓄を傾けるのではない。記憶の中にある自分の映画にこだわった。心の中にある映画の思い出。そこからお話を立ち上げた。



僕は昔、映画館でバイトをしていたことがある。新世界にあったある小さなポルノ映画館だ。そこには看板を描く人がいた。フィルムを自転車で運ぶおじさんがいた。テケツで、切符を切ったり、売店でジュースやお菓子を売ったり、町中にポスターを張りに行ったりもした。なんでもしたけど、さすがに映写機は回さなかった。でも、ときどき映写室で映写技師のおっさんから、いろんな昔話を聞かされた。映写室に入るのがうれしかった。そんなことを思い出しながら、この芝居を見た。



この芝居で大切なものは、そんな些末な出来事だ。映写室で青年と少女が過ごす時間。ふたりがそこで何を見たのか。できることなら、そこをもっと描いて欲しかった。非日常の場であるその狭い空間は特別な場所だと思うのは僕の感傷に過ぎないのかもしれないが、この芝居自体がそういうそれぞれの中にある感傷を形にしたものだと思うからだ。



銀幕の中にある想いがそこから溢れていく瞬間。映画が娯楽の王様だった時代。モノクロは白と黒ではない。そこには色がないわけではない。そこには無限の可能性があった。色のない世界が極彩色の世界よりも雄弁だった。そこにみんなが夢を見た。スクリーンの中で現実にはない夢を見た。現実があまりに厳しくて辛いからそこから逃避した。2時間の至福がそこにはあった。見た瞬間から消えていくから、しっかりと胸に刻み付ける。それが映画だった。ビデオができて、やがて映画は個人が所蔵できるようになったとき、もう映画は夢ではなくなったのかもしれない。



家族みんなで映画を見ることが楽しみだった時代。やがて、そんな幸福な時代は終わりを遂げる。ソン・ミョンホ(柴崎辰治)は、今は映画が嫌いだ。父親がいなくなり、みんなで見た映画の時代が終わったからだ。時代が経て今に至る。



ある日、娘から一緒に映画に行こうと言われる。芝居はそこから始まる。この作品のスタートはそんな父と娘のお話なのだ。そこからやがて、たくさんの人たちが複雑に絡み合う群像劇になる。だが、その中心にはしっかりと「映画」がある。どこにたどりつくのか、わからない。だが、それはやがて、1本の映画に収斂される。失われていた小さな記憶。それを掘り起こしていくことで見えてくるもの。2時間20分の芝居が世界を形作る。
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