猿之助の通し狂言『義経千本桜』の思い出をもう一つ。昔から大好きな「小金吾討死」である。
この月の小金吾は、市川右近が勤めた。
過去、幾つかみてきた「小金吾討死」で、私が一番気に入っているものは?というと、澤瀉一門の春猿だろうか。
春猿のような真女方の小金吾というのは、存在それじたいが危なすぎ!という感じで、立廻りの決まりなどがまるで決まらなくとも、終始腰がフラフラしていても、これ以上ないほどに官能的だった。忘れられない…!
今みるなら、七之助の小金吾がみたい気がする。巡業ではお披露目されているが、本舞台ではまだだろう。
七之助がどれほどヤバイ官能性を持った役者か?については、去年の浅草歌舞伎、勘平役をみての感想を、是非お読みいただきたい。
私にとって『義経千本桜』とは、歌舞伎の自習みたいな演目だった。
通しでもみどりでも幾度となくみて、それぞれの幕ごと、あるいは全体を通じて、その度ごとに発見があり、退屈したことがなかった。そのきっかけをくれたのは、狐忠信の宙乗りを通し狂言で復活させた猿之助のお陰だ。
もはや役者復帰はできないだろう猿之助だが、彼の取り組みは歌舞伎界において、実にかけがえのないものだった…と今でも思う私である。
七月猿之助歌舞伎『義経千本桜』通し 「小金吾討死」 1998.07 歌舞伎座
歌舞伎の魔力に学生時代から魅了されてるが、歌舞伎があまりに、エロティックで官能的だからかも知れない。
それも、下世話で大衆的な見え方だからよけいに好き!である。
歌舞伎はあくまでも、「絵ヅラのきれいさ」「形のいかがわしさ」を追及する芸能だ。
根っこがスキャンダリズムなのであり、確信犯的に卑猥なエロティシズムを発散するのだ。見世物に近い。
こういう下卑た部分が、人工着色料や甘味料みたいで、私は特に気に入っている。
そんな私が『義経千本桜』の中でも好きだった幕は、「小金吾討死」なのだ…
もとから歌舞伎の何が好きって、立廻りが好きなせいもあるだろう。
ところで、『千本桜』における「小金吾討死」で展開される立廻りは、芝居でよくある「悪を滅ぼし善が勝つ!」立廻りとは、まったく異なるものだ。
ヒーローの強さ、かっこよさ、大きさを引き立てるための立廻りではない。そこがとりわけ面白い。
登場した時点で、小金吾はすでに手負いである。
かなりの深手を負っていて、舞台袖からよろめくように出て来る。 注)竹薮を使った演出では、舞台奥から
彼はまだうんと若い前髪の武者で、年齢はそう、いっていても十五〜十六歳位ではないだろうか?
そういう若武者が、明らかに半死半生で登場する。
辺りは漆黒の闇夜。それも街道筋からかなり離れた、鄙びた薮の中という設定である。
小金吾は、追っ手から深いダメージを受けている。
ここでの小金吾は、完全な【ウケ】であり、絶体絶命だ。いわば、罠に落ちた一人の少年である。
そして、これから始まる立廻りの妙味は?というと、まだ幼さの残る少年を、大人である捕手たちが執拗に追い詰め、多勢に無勢でとうとう件の少年がズタボロに切り刻まれ、いよいよ力尽きて断末魔に向かう様子を逐一、言葉は変だが、「目でみて堪能し、心でゾクゾクする」ことにある。
このため小金吾は、前髪の少年ならではの弱々しさと、純粋な気丈さが出なくてはいけない役とされている。
美しいナニカが、これでもかこれでもかとサディスティックにいたぶられて、終いにはあえなく悶死する…
このような【嗜虐気質】は「責め絵」「危な絵」などというジャンルで昔から日本にはあるのだが、それを文字通り舞台で視覚化立体化したのが、「小金吾討死」という幕なのだ。
公序良俗に反しているし、ずばり「イケナイ場面」であるといっていいだろう。
当然のことながら、小金吾の立廻りはふらついていて、颯爽とした感じは一切ない。
刀で身体を支え、肩でゼイゼイと荒く息をし、もうこれまでと苦悶に顔を歪め、勇壮さなんて微塵も感じられない。
きちんと結っていた髪はばらけて総髪となり、ところどころは汗で顔にはりついている。
動きも緩慢だ。立廻りの中でもスピード感をあえて落とし、ゆったりふらーりとみせるのだ。
この時の下座が、これまた、実に暢気な調子の「どんたっぽ」というのも面白い。
つまり、小金吾は惰性で斬り続けているだけのなのだ。斬ることがもうなんの意味もない。ただ、斬っている。
ただし、ふとした瞬間、キラリと自滅的な攻撃性を見せることもある。
その刹那の殺気は、斬れ味鋭く、まことに凄絶だ。
そして、ほとんど死に体となった小金吾が、時折放つ裂帛の気合は、かえって快感ですらある!
最大の見どころは、あまたの捕手によって投げられた縄があたかも蜘蛛の糸のように張り巡らされ、その中心部に小金吾が乗って見得を決める場面だ。視覚的にとても美しく、毎回必ず拍手が起こる。
巨大な毒蜘蛛の巣に捉えられた、いたいけで、儚い美少年の図…だ。うーん、すごすぎる…
とうとう、小金吾は倒れ臥す。
この倒れる【形】がまた、とてつもなく美しいのだ。
客席に頭を向け、足は舞台側だ。両手は大の字に広げられている。
片足が一本、まっすぐに伸びている。もう一方の足は、膝からほぼ直角に折り曲げられているか、あるいは足首だけを曲げて、そっと片足に添えられているのだが、一階席などからは見えない。
ここを確認できるのは、三階席、それも東西袖席の特権だ!
ザンバラの髪が、舞台手前に扇のように広がる…
もう絶命したかと思われる、緊張した静寂が舞台を包む。
その様子を確認し、最後の一太刀を入れようと、倒れ伏した身体に馬乗りになる敵。
その瞬間、小金吾は下から刀を相手に突き刺すのだ!
彼はまだ生きていたのだ、戦っていたのだ…!
だがしかし、その後の彼に、余力はもはや残っていない。
その後何人かの捕り手とやり合ってから、結局最期は自らの剣で首を斬るのだが、その最期の一瞬でさえ、彼は一人では死ねない。後ろからしのびよる捕り手の一人に羽交い締めにされるようにして、息絶えるのだ…
注)違う演出もあるが、私はこのつけ方の方が好みである…
かくも徹底した【責め】と【受け】の連続。
まるでフーガのように永劫に続くかに思われる、若武者の討死シーン。
この加虐と被虐の協奏曲。嗜虐の粋。これぞ、歌舞伎の悦楽。エロティシズムの法悦。
絶命した小金吾は、痛みからも恐怖からも絶望からも煩悶からも、勝機のない戦いからもすっかり解放され、静かに舞台に横たわっている。その姿は、一度倒れた時と同じだ。
ただ、身体から漂う妖気みたいなものはもはや感じられず、三階袖席から眺めると、彼の表情は柔和でさえある。
弛緩しきっているのだ。
最後に。
この闇夜の薮野原を、ある老人が提灯を手に通りかかる。
彼は死体に足をとられて初めて小金吾に気づき、まだ前髪の残る幼い死に顔と、その顔立ちにあまりにも似合わない無残な斬り傷のすさまじさ・むごさを確認して、思わず涙する。
せめてもと、そこで念仏を唱え、浄土への回向を促すのだ。
ところがこの老人は、ふと魔がさしたように、あることを思いついてしまった様子なのだ。
辺りをうかがい、枝にかけた提灯から明かりがもれないように羽織で覆うと、袴を脱ぎ、小金吾が握り締めている太刀を手から外そうとする。
その最初は、思いついた悪魔的な計略に我知らずおののき、はやっていきなり奪おうとするが、小金吾の執念がこもる刀は容易には抜けない。そこであらためて心を落ち着け、ゆっくりと小金吾のこぶしを愛撫し始める。
と、スルリと小金吾の太刀が、男の手に渡る。
ここもなんともいえず、いい場面である。
親子、いや、孫ほども歳が離れた老人の小金吾に対するいたわりが感じられると同時に、死体を撫でるという少しだけアブノーマルなイメージが最高なのだ。
そしてこの老人、いくらか逡巡しながらも覚悟を決め、太刀を振りかぶり、小金吾の首目がけて振りおろそうとするのだ…!なんたること…!!!
この瞬間に、柝の音とともに幕となる鮮やかさは、ほんにお見事。たとえようがない、芝居の力である。
この男がなぜこんなにも残酷なことをしたのか?その理由はこの後の舞台で解明されることとなる。
今回改めて驚いたのは、小金吾に課せられた虐待の大きさに、だった。
小金吾は死して尚、首を落とされるのだ。こんな結末を迎えることになった小金吾の忠義の想いが強ければ強いほど、小金吾への残虐な仕打ちは、舞台でますます冴えわたる。
果てには首まで落とされるという、あまりに非情であり凄惨なオチが、実はその後の大きな忠義の実現に結びつくことを知った時、【壮大な忠義の輪廻】みたいなものの美しさ・運命的な偉大さと同時に、虚しさをつくづくと感じたのだった。
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は ■2007年版 ■2006年版 ■2005年版>
この月の小金吾は、市川右近が勤めた。
過去、幾つかみてきた「小金吾討死」で、私が一番気に入っているものは?というと、澤瀉一門の春猿だろうか。
春猿のような真女方の小金吾というのは、存在それじたいが危なすぎ!という感じで、立廻りの決まりなどがまるで決まらなくとも、終始腰がフラフラしていても、これ以上ないほどに官能的だった。忘れられない…!
今みるなら、七之助の小金吾がみたい気がする。巡業ではお披露目されているが、本舞台ではまだだろう。
七之助がどれほどヤバイ官能性を持った役者か?については、去年の浅草歌舞伎、勘平役をみての感想を、是非お読みいただきたい。
私にとって『義経千本桜』とは、歌舞伎の自習みたいな演目だった。
通しでもみどりでも幾度となくみて、それぞれの幕ごと、あるいは全体を通じて、その度ごとに発見があり、退屈したことがなかった。そのきっかけをくれたのは、狐忠信の宙乗りを通し狂言で復活させた猿之助のお陰だ。
もはや役者復帰はできないだろう猿之助だが、彼の取り組みは歌舞伎界において、実にかけがえのないものだった…と今でも思う私である。
七月猿之助歌舞伎『義経千本桜』通し 「小金吾討死」 1998.07 歌舞伎座
歌舞伎の魔力に学生時代から魅了されてるが、歌舞伎があまりに、エロティックで官能的だからかも知れない。
それも、下世話で大衆的な見え方だからよけいに好き!である。
歌舞伎はあくまでも、「絵ヅラのきれいさ」「形のいかがわしさ」を追及する芸能だ。
根っこがスキャンダリズムなのであり、確信犯的に卑猥なエロティシズムを発散するのだ。見世物に近い。
こういう下卑た部分が、人工着色料や甘味料みたいで、私は特に気に入っている。
そんな私が『義経千本桜』の中でも好きだった幕は、「小金吾討死」なのだ…
もとから歌舞伎の何が好きって、立廻りが好きなせいもあるだろう。
ところで、『千本桜』における「小金吾討死」で展開される立廻りは、芝居でよくある「悪を滅ぼし善が勝つ!」立廻りとは、まったく異なるものだ。
ヒーローの強さ、かっこよさ、大きさを引き立てるための立廻りではない。そこがとりわけ面白い。
登場した時点で、小金吾はすでに手負いである。
かなりの深手を負っていて、舞台袖からよろめくように出て来る。 注)竹薮を使った演出では、舞台奥から
彼はまだうんと若い前髪の武者で、年齢はそう、いっていても十五〜十六歳位ではないだろうか?
そういう若武者が、明らかに半死半生で登場する。
辺りは漆黒の闇夜。それも街道筋からかなり離れた、鄙びた薮の中という設定である。
小金吾は、追っ手から深いダメージを受けている。
ここでの小金吾は、完全な【ウケ】であり、絶体絶命だ。いわば、罠に落ちた一人の少年である。
そして、これから始まる立廻りの妙味は?というと、まだ幼さの残る少年を、大人である捕手たちが執拗に追い詰め、多勢に無勢でとうとう件の少年がズタボロに切り刻まれ、いよいよ力尽きて断末魔に向かう様子を逐一、言葉は変だが、「目でみて堪能し、心でゾクゾクする」ことにある。
このため小金吾は、前髪の少年ならではの弱々しさと、純粋な気丈さが出なくてはいけない役とされている。
美しいナニカが、これでもかこれでもかとサディスティックにいたぶられて、終いにはあえなく悶死する…
このような【嗜虐気質】は「責め絵」「危な絵」などというジャンルで昔から日本にはあるのだが、それを文字通り舞台で視覚化立体化したのが、「小金吾討死」という幕なのだ。
公序良俗に反しているし、ずばり「イケナイ場面」であるといっていいだろう。
当然のことながら、小金吾の立廻りはふらついていて、颯爽とした感じは一切ない。
刀で身体を支え、肩でゼイゼイと荒く息をし、もうこれまでと苦悶に顔を歪め、勇壮さなんて微塵も感じられない。
きちんと結っていた髪はばらけて総髪となり、ところどころは汗で顔にはりついている。
動きも緩慢だ。立廻りの中でもスピード感をあえて落とし、ゆったりふらーりとみせるのだ。
この時の下座が、これまた、実に暢気な調子の「どんたっぽ」というのも面白い。
つまり、小金吾は惰性で斬り続けているだけのなのだ。斬ることがもうなんの意味もない。ただ、斬っている。
ただし、ふとした瞬間、キラリと自滅的な攻撃性を見せることもある。
その刹那の殺気は、斬れ味鋭く、まことに凄絶だ。
そして、ほとんど死に体となった小金吾が、時折放つ裂帛の気合は、かえって快感ですらある!
最大の見どころは、あまたの捕手によって投げられた縄があたかも蜘蛛の糸のように張り巡らされ、その中心部に小金吾が乗って見得を決める場面だ。視覚的にとても美しく、毎回必ず拍手が起こる。
巨大な毒蜘蛛の巣に捉えられた、いたいけで、儚い美少年の図…だ。うーん、すごすぎる…
とうとう、小金吾は倒れ臥す。
この倒れる【形】がまた、とてつもなく美しいのだ。
客席に頭を向け、足は舞台側だ。両手は大の字に広げられている。
片足が一本、まっすぐに伸びている。もう一方の足は、膝からほぼ直角に折り曲げられているか、あるいは足首だけを曲げて、そっと片足に添えられているのだが、一階席などからは見えない。
ここを確認できるのは、三階席、それも東西袖席の特権だ!
ザンバラの髪が、舞台手前に扇のように広がる…
もう絶命したかと思われる、緊張した静寂が舞台を包む。
その様子を確認し、最後の一太刀を入れようと、倒れ伏した身体に馬乗りになる敵。
その瞬間、小金吾は下から刀を相手に突き刺すのだ!
彼はまだ生きていたのだ、戦っていたのだ…!
だがしかし、その後の彼に、余力はもはや残っていない。
その後何人かの捕り手とやり合ってから、結局最期は自らの剣で首を斬るのだが、その最期の一瞬でさえ、彼は一人では死ねない。後ろからしのびよる捕り手の一人に羽交い締めにされるようにして、息絶えるのだ…
注)違う演出もあるが、私はこのつけ方の方が好みである…
かくも徹底した【責め】と【受け】の連続。
まるでフーガのように永劫に続くかに思われる、若武者の討死シーン。
この加虐と被虐の協奏曲。嗜虐の粋。これぞ、歌舞伎の悦楽。エロティシズムの法悦。
絶命した小金吾は、痛みからも恐怖からも絶望からも煩悶からも、勝機のない戦いからもすっかり解放され、静かに舞台に横たわっている。その姿は、一度倒れた時と同じだ。
ただ、身体から漂う妖気みたいなものはもはや感じられず、三階袖席から眺めると、彼の表情は柔和でさえある。
弛緩しきっているのだ。
最後に。
この闇夜の薮野原を、ある老人が提灯を手に通りかかる。
彼は死体に足をとられて初めて小金吾に気づき、まだ前髪の残る幼い死に顔と、その顔立ちにあまりにも似合わない無残な斬り傷のすさまじさ・むごさを確認して、思わず涙する。
せめてもと、そこで念仏を唱え、浄土への回向を促すのだ。
ところがこの老人は、ふと魔がさしたように、あることを思いついてしまった様子なのだ。
辺りをうかがい、枝にかけた提灯から明かりがもれないように羽織で覆うと、袴を脱ぎ、小金吾が握り締めている太刀を手から外そうとする。
その最初は、思いついた悪魔的な計略に我知らずおののき、はやっていきなり奪おうとするが、小金吾の執念がこもる刀は容易には抜けない。そこであらためて心を落ち着け、ゆっくりと小金吾のこぶしを愛撫し始める。
と、スルリと小金吾の太刀が、男の手に渡る。
ここもなんともいえず、いい場面である。
親子、いや、孫ほども歳が離れた老人の小金吾に対するいたわりが感じられると同時に、死体を撫でるという少しだけアブノーマルなイメージが最高なのだ。
そしてこの老人、いくらか逡巡しながらも覚悟を決め、太刀を振りかぶり、小金吾の首目がけて振りおろそうとするのだ…!なんたること…!!!
この瞬間に、柝の音とともに幕となる鮮やかさは、ほんにお見事。たとえようがない、芝居の力である。
この男がなぜこんなにも残酷なことをしたのか?その理由はこの後の舞台で解明されることとなる。
今回改めて驚いたのは、小金吾に課せられた虐待の大きさに、だった。
小金吾は死して尚、首を落とされるのだ。こんな結末を迎えることになった小金吾の忠義の想いが強ければ強いほど、小金吾への残虐な仕打ちは、舞台でますます冴えわたる。
果てには首まで落とされるという、あまりに非情であり凄惨なオチが、実はその後の大きな忠義の実現に結びつくことを知った時、【壮大な忠義の輪廻】みたいなものの美しさ・運命的な偉大さと同時に、虚しさをつくづくと感じたのだった。
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は ■2007年版 ■2006年版 ■2005年版>






