ぽんしゅう座

映画を観るくらいしか趣味のない男の、雑談です。

■ バンコクナイツ (2016)

2017年03月06日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
金銭に救いの意思を託すしか術が思いつかない“良性上から目線男”の優しさなど意に介さす、地に足つけた夜のキャリアウーマンは“たるみきった果実”を搾り続ける。この恋愛ごっこに悪意は微塵もない。これはもはや歴史に根ざした草の根“日タイ”経済援助活動。

日本のエリートビジネスマンは、ここには居ない。きっと空調の効いたどこかのオフィスビルや高級マンションで日本とさして変わらぬ生活をしているのだろう。

ここに居るのは、日本に居場所がなく吹き溜まった男たちだ。男たちは、みな妙に自信に溢れている。沈没組と呼ばれる男にしたって悲壮感などかけらもない。日本というカセから解放された安堵だろうか。それとも、この期に及んでも捨てきれない、日本という根拠なきブランドがもたらす驕りのためだろうか。

地方からこの街に集まったタイの女たちは、みなプロフェショナルだ。彼女たちの背景には、同じように生きてきた母や祖母がいる。そして、彼女たちに続くだろう若い女や子供たちがいる。世襲なのだ。彼女たちの生計は、この女を「救うのは俺だ」という言い訳に支えられた男たちの性欲で成り立っている。それは、相互利益の名目で、この地域に投下される先進国の援助資金の理屈に似ている。

生温かい熱気のなごりを頬で感じながら、夜の街を疾走する三輪タクシーの心地よさそうなこと。現地語のポップミュージックはどれも人懐っこく、川辺を練り歩く宗教隊列が奏でる素っ頓狂な笛太鼓は東アジアの祭りの囃子のようで、託宣を告げる尼僧の語りには演歌のコブシを彷彿とさせる哀切が漂う。どの旋律も日本人の音の記憶に共鳴する。

とりとめもなくパラパラとスケッチブックをめくるように、さまざまな出来事や風景がスクリーンのなかを流れていく。そして、再び銃を手にした元アーミーはポン引きとなって、神父になった元同僚とこの歓楽街で出会う。

私に分かったのは、インドシナについて私は何も知らないということだ。

1945年、日本はインドシナから撤退する。その後35年間、第一次から第三次インドシナ戦争と、この地に戦火が絶えることはなかった。日本は、後ろめたさからだろうか、インドシナの戦争から目をそむけ続けていたように思う。この地域に積極的に関わるのは、戦火が去った80年代以降だった。現地の安い人件費に目をつけた日本企業の工場が続々と進出する。

植民地支配の後ろめたさを清算しないまま70年が過ぎた。だから、今でも日本人は、過剰な憧れと、見当はずれの優しさと、無意識の優越感をもって、かの地の「女」たちに不器用に接し、彼女たちの強かな反応に気づかないふりをして、やり過ごすことで古臭いプライドに固執しているのかもしれない。

そんなことを考えた。

(3月1日/テアトル新宿)

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