多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

安川寿之輔の「丸山諭吉神話のウソ」を暴く

2010年08月22日 | 集会報告
酷暑の8月15日夕刻、文京区民センターで「植民地主義と排外主義を許すな! 8・15反「靖国」行動」という集会が開催された(呼びかけは、反天皇制運動連絡会、靖国解体企画ほか6団体、参加150人、デモ参加250人)。メインは安川寿之輔さん(不戦兵士・市民の会)の講演だった。安川さんは7月31日に名古屋で行われた歴史教育者協議会全国大会で講演されたばかりで、そのレジュメも使った講演だった。
この日の講演は福沢諭吉をテーマにしたものだった。安川さんはその理由を「昨年11月『NHK〈坂の上の雲〉放送を考える全国ネットワーク』の結成にかかわり、今年は35もの講演予約が入っている。日本社会の誤った近代史像の常識を、今日は福沢諭吉を対象にして変革したい」と語った。

排外主義的天皇制ナショナリズムとアジア侵略の道のり  福沢諭吉に限定して

はじめに 天皇崇拝の差別主義者・福沢諭吉
世間では、福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と主張した人間平等論者あるいは天賦人権論者と評価されている。しかし福沢は、「支那兵の如き・・・豚狩の積り」「チャンチャン・・・皆殺し・・・造作もなきこと」とアジア人蔑視をし、庶民を「素町人土百姓」と呼び、女性差別する人物だった。また天皇制の本質を「愚民を籠絡する・・・欺術」「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」と説き、天皇とかかわるときは「身に余るの光栄」「声涙共に下り言葉も途切れ勝」な天皇崇拝者だった。
こんなことになったのは政治学者・丸山眞男が虚構の福沢諭吉神話をつくり、誤ったマスコミや学校教育の圧倒的な影響力のもとにいまだに信奉されているからだ。

1 福沢諭吉はなぜアジアを蔑視したのか
「文明論の概略」(1875)のころの初期啓蒙期の福沢は、中国・朝鮮をトルコや日本と同等に「半開の国」と称し「恰も我国の往日の如し」(要知論 1876)という評価をしていた。ところが「民情一新」(1879)になると「学問のすすめ」(1876)で唱えた「一身独立」という公約を放棄し「自国独立」一辺倒になる。それは必然的にアジア認識の転換と「強兵富国」(富国強兵でないことに注意)の対外強硬政策の選択を福沢にもたらした。朝鮮国は未開なので「武力を用ひても其進歩を助けん」と主張し、「朝鮮人・・・無気力、無定見」「チャイニーズ・・・恰も乞食穢多」など、丸ごとの差別・偏見の垂れ流しを始めた。
一方、「内国の不和を医するの方便として故さらに外戦を企て」(民情一新 1879)と権謀術数的な国家観を政治的持論とした。

2 なぜインテリを含め国家の本質を問うことができなかったのか
司馬は日本の近現代史を「明るい明治」対「暗い昭和」に分断し、丸山は明治前期の「健全なナショナリズム」対昭和前期の「超国家主義」の二項対立的歴史観を唱えた。
暗い昭和の日本人は、労働者・農民だけでなく知識人まで召集令状(赤紙)1枚で自己の生命と人生をいかようにも蹂躙される「国民国家」に生活しながら「国家」の本質、存在理由を問うことがなかった。なぜ問えなかったのだろうか。
福沢は「学問のすすめ」でほぼ正確にアメリカ独立宣言を訳出したが、肝心要の政府の存在理由を紹介せず、日本人の基本的人権から「抵抗権、革命権」を意図的に除外した。一方、イギリスやアメリカでは良心的兵役・軍務拒否を選択し獄中生活をした人がいた。いまでも良心的兵役拒否について若者が教えられていない残念な「平和教育」の現状がある。

3 福沢のナショナリズムは忠君ナショナリズムと異質なものだったか
 (時間の関係でカット)

4 日清戦争は「多分に受け身」だったか
「坂の上の雲」は、当時の世界が帝国主義の時代だったから近代日本のアジア侵略は余儀なく選ばざるをえなかった必然の道のりで、「清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった」と主張する。
ここで福沢が能動的にアジア侵略の道を主導したことを概観する。福沢は「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず」(通俗国権論 1878)と弱肉強食の国際関係を強調し、1881年の「時事小言」で「無遠慮に其地面を押領」するアジア侵略路線を確立した。これに対し、同時代の吉岡弘毅・元外務権少丞は福沢を「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」と批判しており、けして必然の道のりではなかった。
また福沢は、山県首相より3年早く「最近の防御線を定むべきの地は必ず朝鮮地方」と論説「朝鮮は日本の藩屏」(1887)で主張した。日清戦争が始まると、挙国一致の戦争協力を呼びかける「日本臣民の覚悟」を発表し、94年9月には「北京中の金銀財宝を掻き浚へて・・・チャンチャンの着替えまでも引っ剥で持帰ることこそ願はしけれ」と私有物強奪の勧めまで「漫言」に書いた。なお日清戦後、「護国の要務」として「及ぶ限りの光栄を戦死者並に其遺族に与えて、以て戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず・・・大元帥陛下自ら祭主と為らせ給ひ」と靖国神社の軍国主義的な政治利用を主張している。
また95年には「朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして」と実際の併合より15年前に、併合を予測するような論説を書いた。とても「受け身」とはいえない。

5 日本国民をアジア侵略に動員するための思想的準備
「明るい明治」を象徴する福沢諭吉の思想は、長年「一身独立して一国独立する」と理解され信奉されてきた。しかし、福沢がいう「一身独立」とは、「国のために財を失ふのみならず、一命を抛(なげうち)て惜むに足ら」ない「報国の大義」学問のすすめ 三編のことだった。「国家のために死ぬ」という観念、「暗い昭和」の滅私奉公の「愛国心」を、福沢は日清・日露戦争の20-30年以上も前に主張していたことになる。
教育勅語(1890)や大日本帝国憲法(1889)に対する福沢の姿勢についても誤解がある。「愚民を籠絡する・・・欺術」(帝室論 1882)としての神権天皇制を選択した福沢は、教育勅語を讃美する道をたどった。勅語発布の1年後内村鑑三の勅語拝礼忌避事件で、福沢は論説主幹として一言も発言しなかった。一方、大日本帝国憲法公布の社説で、「日本人は・・・従順、卑屈、無気力の性格・気質を先天の性」として形成し、この「順良」な性向を「我日本国人の殊色」と讃美した。だから翌年の教育勅語を福沢が受容したことは自然である。
たしかに福沢自身の筆によるものではないが、時事新報の主筆として「勅語に感泣した」と記者・石河幹明に社説を書かせたことが明確になっている。福沢は、天皇の前では無限に小さくなり臣民意識をもつ日本国民が、その埋め合わせとしてアジアの民衆のまえでは尊大な大国意識をもつ排外主義的な国民として立振る舞うように励ましたのである。
福沢はアジアの人びとから「最も憎むべき民族の敵」「たいへんな国家主義者」などと呼ばれている。諭吉の肖像は84年から一貫して最高額面紙幣、1万円札に使われている。2004年に他の紙幣の肖像が変わったときにもそのままだった。わたしは「日本の1万円札に福沢が印刷されている限り日本人は信じられない」という批判がこたえる。早く引退してほしいものである。

講演のあと、靖国解体企画、ヘイトスピーチに反対する会「韓国強制併合100年共同行動」日本実行委員会、米軍自衛隊参加の東京都総合防災訓練に反対する実行委員会2010など、6つの団体からそれぞれの集会の呼びかけなどのアピールがあった。

九段下手前のデモ。緑のTシャツの男が右側から突入しようとして取り押さえられた
☆集会に先立ち3時からデモが行われた。集合場所は水道橋駅から南に400mほど歩いた西神田公園、コースは白山通りを南に歩き神保町の交差点を右折し靖国通りを九段下まで歩き、大鳥居を見上げながら右折して専修大学をさらに右折し西神田公園へ戻る、約1時間のデモだった。集合場所周辺は街宣右翼が多数押しかけ、デモ参加者より多いくらいの公安や機動隊がたむろする異様な雰囲気だった。白山通りと専大通りには街宣カーが多数駐車し「売国奴」「北朝鮮に帰れ」と怒鳴っている。街宣車に沿ってズラリと機動隊の特殊車両が停車しているので直接右翼の姿をみることはできない。しかしときどき機動隊の車両の上を飛び越してペットボトルなどが投げつけられる。また靖国通りでは日の丸を持った右翼が時おり単身突撃してくるので機動隊員が数人がかりで止めている。われわれは両側を機動隊にサンドイッチされ、「(間を)詰めて詰めて」と言われっぱなし、暑さで頭はボウーッとしてくる。わたしは気づかなかったが、九段下では在特会が待ち伏せしていた。
右翼のどなり声をよく聞くと「チョン公、出ていけこの野郎!」「朝鮮障害者」「お前らに人権はないんだ、エタ非人以下!」などムチャクチャなことを言っている。視覚障害者の人が本気で怒っていた。
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