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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

「“私”を生きる」の3人の教員

2010年04月16日 | 観劇など
4月11日(日)午後、土井敏邦監督の「“私”を生きる」完成記念上映会が明治大学駿河台キャンパス・リバティータワーで開催された。まだ桜は散り初めで、とても暖かく、半袖の服を着たいようは陽気の日だった。
この映画は、根津公子さん(中学校教員・家庭科)、佐藤美和子さん(小学校教員・音楽専科)、土肥信雄さん(元三鷹高校校長)の、3人の「生き方」を映像でとらえたドキュメンタリーである。

わたしは佐藤さんと土肥さんのスピーチをそれぞれ2回ほど聞いたことがある。根津さんのお話はたぶん10回か20回お聞きし、「君が代不起立(ビデオプレス 松原明・佐々木有美)を2作ともみたことがあり、3人の闘いのあらましは知っていた。また2000年3月の国立二小卒業式以降、どんどんエスカレートした東京都教育委員会の締め付けも知っている。だからアウトラインはわかっていたつもりだが、この映画で3人の方について、はじめて知ったことは多い。そういう点を中心に紹介する。

映画は、2007年3月根津公子さんが町田の鶴川2中で君が代不起立をする日のシーンから始まる。1回目の停職6ヵ月処分を受けることになった卒業式だ。そしてご自宅でのインタビュー、その後の校門前出勤のシーンへと続く。
根津さんが家庭科教師になった当時は男女共修でなく、男子は技術、女子は家庭という男女差別の象徴の教科だった。そこで料理・裁縫以外に「どういう家庭をつくるか」とか、「どういう生き方をするか」を生徒といっしょに考えることができる教科だと考えたことが、家庭科教師を志した理由だそうだ。「わたしが中学生のときに、受けたかった教育をしたかった」と語った。
八王子の石川中での一部保護者からのバッシング、多摩市に強制移動させられたときの市教委の策動などが、関係者の証言などにより明らかになった。
君が代不起立の理由は「自分が自分として生きていけないから」である。ここで負けてやめたら「この先50年、わたしは自分を好きでいられないだろうと思った」、「わたしがわたしとして生きる。それだけでがんばった」と語った。
              
佐藤美和子さんは2000年3月国立2小の卒業式で、胸に青いピースリボンを着けたことが職務専念義務違反とされ処分された。また牧師の父の影響やキリスト者として、君が代のピアノ伴奏を拒否し続けた。すると音楽専科の教員がもう1人赴任し、「君が代を弾けず職を追われ」家庭科を教えることになった。
佐藤さんは土井監督とともに国立2小の校庭を歩きながら、国旗掲揚ポールがある屋上を見上げ「どんどん追い詰められ、広島の高校校長の自殺が国旗国家法成立を後押ししたことを思い出し、わたしがここから飛び降りれば少しは歯止めになるかもしれない、と当時の自分は思ったのでしょうね」と静かな口調で語った。屋上の上に広がる青空は佐藤さんの心象風景を映し出すかのようだった。
佐藤さんの父は09年7月に亡くなり、松沢教会での葬儀も映し出された。ビルマ戦線で戦い、牧師となったあと、首相の靖国参拝反対運動を一人で闘った人だ。
佐藤さんは、ピアノ伴奏拒否について「私が受け入れたら、私が私でなくなる」と答えた。佐藤さんは卒業式でいまもピアノは弾けないが「立つことは立っている。迷いながら・・・」。それは音楽をとおして、子どもともにありたいからだ。
              
土肥信雄さんは大学紛争を体験した世代だ。とはいっても自ら参加したわけではなく大勢いた「一般学生」だったようだ。
朝、三鷹高校の校門前で、通学する生徒に「○○、バスケットだけでなく、勉強もやれよ」「○○、早くしろ。笑ってる場合じゃないぞ!」と元気よく名前で呼び掛ける。教員時代に生徒を当てる授業をしており「そこ!」というのがいやだったので、名前を覚える習慣が身についたという。
体育会系を自称するだけに、その強みを発揮しジャージを着てラグビー部の生徒とともに柔軟体操する姿、女子バレー部の練習でアタックする姿、練習試合が終わり「ありがとうございました!」と本気で、感謝の言葉をかける姿が次々に映し出された。当然生徒の評判はよかった。
ところが都教委のあまりの横暴さ、批判を許さぬ態度に土肥さんは「切れた」。08年7月「職員会議で挙手・採決禁止」通知に異議申し立てし、都教委に公開討論を申し入れたが返事は「拒否」だった。その結果、09年1月の再雇用試験は不合格、スクリーンに「業績評価C」、「推薦しない理由 遂行能力に劣る、誤解を招く表現・・・」と記された文書が映し出された。
09年6月、土肥さんは都教委を相手取り提訴した。大学生のときを振り返り「自分の思いをちゃんとできなかった負い目が大きかった」と語る。そして安田講堂の壁に書かれていた「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」という言葉を2度繰り返した。

根津さんは、いまも不起立、佐藤さんは迷いながら立ち、土肥さんはかつて起立の「職務命令」を出す側と、立場はそれぞれ異なる。しかし都教委の圧力に従えば「自分が自分でいられなくなる」という切迫した危機感が現在の行動、現在の自分自身をつくりあげた点では共通している。

上映後、土井敏邦監督は「この映画は教育問題を伝えようとしたのではない。日の丸君が代は素材のひとつだ。そうではなく、闘うとはどういうことか見せたかった。とりわけ教員以外の普通の人に見てほしい。自分も3人に励まされた」と述べた。
土肥さんは「中学生のころ人間として平等な社会にしたいと思ったことが、すべての原点だ。理論は詳しくないが、不公平だと自分が感じる感覚を大事にしてきた。人間土肥を撮ってくれてうれしかった。監督、ありがとう」と述べた。
佐藤さんは「現任校の保護者に本当はカミングアウトしたくなかったが、土井さんに『佐藤さん、自信をもってください』といわれた。『君が代弾けない音楽教師でいい。わたしがわたしでいていいんだ』というメッセージをいただいた」と語った。なお根津さんは残念ながらこの日は欠席だった。
わたしは、佐藤さんのパートにいちばん感動した。「迷いながら、生きている」ことが率直に表れていたからだ。普通の人は、自分自身も含め、やはり日々迷いながら生きている。土井監督も「自分自身、迷いながら生きていた」と発言された。
136分の映画だが、3時間以上あるように感じた。3人の生き方がずっしりと描かれているからだろう。

☆この映画をみて、06年3月末に分限免職になった増田都子さん(元・九段中学教員)のことを考えた。根津さんは手書きで手作りの冊子を授業で使ったそうだ。増田さんは、原則として教科書を使って教えたが、それ以外に1学期に数時間「紙上討論」を行った。生徒に、社会科で学んだテーマに関連する映画や本の感想・意見を書かせ、それをワープロ打ちし自分のコメントを付けてプリントし、生徒に配りふたたび紙上で討論する。根津さんの石川中学の卒業生が「自分で考えることを教えられた」と語っていたが、増田さんの授業を受けた生徒とまったく同じ感想だった。目的は「自分の頭で考え、他人の意見に対する自分の意見を書く」ことだった。
根津さんが一部の保護者のバッシングにさらされたのも、増田さんが97年に足立16中で受難したのと同じ状況だ。
佐藤さんは音楽専科の教員が2人配置され音楽の授業を奪われた。増田さんは2回の研修所送りで生徒とのつながりを絶たれ、そのあげく4年前の3月末に分限免職となった。
増田さんはいま大人を対象にした現代史講座の授業を続けている。もう一度中学生を教える教室に戻させてあげたい。

都庁第二庁舎前の増田さん(2010年1月)
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