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鳴門市賀川豊彦記念館でみた少年時代の賀川

2017年05月05日 | 博物館など
鳴門市賀川豊彦記念館を訪れた。神戸の賀川記念館ミュージアムでは1921年の大争議、本所賀川記念館では関東大震災の復興支援、賀川豊彦記念・松沢資料館では幼児教育をメインテーマとして見学した。鳴門では幼少年期の賀川、そしてキリスト教に目覚めた賀川について知りたいと思ったのがひとつのきっかけだった。なお以下の記述は記念館の展示資料だけでなく、林啓介「時代を超えた思想家 賀川豊彦」(賀川豊彦記念・鳴門友愛会 2002年)に多くを負っている。

まず賀川の出自から記す。父純一(1849-1892)は徳島県の北東部、板野郡大幸村(現在の鳴門市大津町)の造り酒屋・磯部家の七男一女のうち三男として生まれた。この家は長男以外はそれぞれ養子に出ることになっていた。純一も15歳で庄屋の賀川家の養子となった。賀川家には娘が2人いて純一は長女みちと結婚・婿入りしたが、大志を抱き上京して元老院権少書記官に任官した。20代で退官後、徳島に戻り高松支庁長や徳島支庁長を務めた。その後、神戸で阿波藍の運送を扱う回漕店を始めたが、43歳で病死した。みちとの間には子どもが2人いたが1歳前後で死んでしまった。豊彦の母はかめで、元芸者、いわゆる妾だったと考えられる。
夫婦の子どもは上から男、女、男3人の5人で、豊彦は3番目、1888年7月に神戸で生まれた。豊彦という名は、現代ではちょっと洒落た感じがするが、阿波の国一宮の大麻比古神社の祭神、豊受姫と猿田彦から一字ずつとって名付けられたそうだ。父が亡くなったときまだ4歳だった。運の悪いことにその2か月後に母まで亡くなる。そして豊彦は姉と2人だけ鳴門市大麻町東馬詰の父の実家(鳴門線阿波大谷と立道のあいだの南方。記念館から6キロほど東南東)に引き取られ、祖母せいと義理の母みちに育てられる。ちょっと考えると正妻が妾の子を大事に育てることなどあるのだろうか、と思うが、次男の豊彦は初めから賀川家を継ぐ跡取りとされ、戸籍上は豊彦はみちの子どもとなっていた。ただみちは体が弱かったので、主として祖母が厳しく愛情をもって育てた。
東馬詰は旧吉野川の近くで、低い山も近くにあり田んぼがいっぱいの大自然が身近な田園地帯だった。祖母が教育熱心だったので、すぐ近くの第二堀江尋常小学校に入学する。まだ4歳だったが、古い時代にはこんなことができたのだ。これに加え、祖母は禅寺で四書五経の勉強まで始めさせた。豊彦は「源九郎狸」「大麻山の猿」という童話も書いた。

県庁敷地に残る石碑
1900年4月豊彦は名門・徳島中学に入学する。ここでも1年早く11歳で入学している。中学4年で修了し旧制高校に入学する四修という制度があったことは知っているが、1年早く中学入学というのは知らなかった。豊彦は一番小柄な生徒だった。
明治時代の徳島は、東京、京都、金沢、神戸、仙台などに次ぐ全国10位の都市だったそうだ。
いまは城南高校という名の進学校になっており、有名な卒業生では、原安三郎(元日本化薬会長)、中野好夫(英文学者)、変わったところでは立木義浩大川隆法がいる。1974年に内ゲバで誤爆されて殺された四宮俊治も卒業生だ。なお校舎は、現在は徳島駅の南のほうにあるが、賀川が在学中は東の県庁の場所にあった。学校の北側は川でいまはヨットハーバーになっている。
はじめの1年は寄宿舎に入っていたが、バンカラな雰囲気がいやで英語教師・片山正吉の片山塾に移った。この塾にはいとこの新居格(にい・いたる)もいた。このころ通町教会の宣教師・ローガンとマヤスに英語を習うため通い始めた。
 
通町教会は「通町家族」か隣の愛媛銀行徳島支店の場所にあった
通町教会(日本キリスト教会徳島教会)は1964年に大道3丁目に転居した。跡地は両国本町の愛媛銀行徳島支店か「通町家族」というマンションになっているようだ。
ところが賀川が4年に進学した1903年に兄・端一の神戸の回漕店が倒産し、東馬詰の家屋敷も売却することになり、学費も厳しくなる。賀川は叔父(亡父の弟)森六兵衛(六郎かもしれない。屋号が森六だったので六までは確かだが、六兵衛か六郎かは不確実)の世話になった。さらに04年12月に兄は病死する。
卒業後の進路として、賀川は東京の明治学院に進学しキリスト教の伝道師になることを選んだ。しかし耶蘇教嫌いの叔父は激怒し学費の援助も打ち切りとなった。このとき援助を申し出たのがマヤスだった。
卒業時の成績が展示されていた。15教科の合計点数順で、61人中13番、上位であることは確かだが抜群の成績というわけではない。たとえば国語第一90点、第二70点、理科系の科目の代数57点、幾何57点、物理62点だったので文科系の生徒だったようだ。修身は78点で並の成績、体操は82点でけしてガリ勉タイプではなかったようだ。注目すべきは法制及経済の83点で、掲示されていた上位16人中一番だった。いまでいう社会科が優れており、その後社会運動や社会事業に取り組む賀川の素質をみたように思った。中学後期に賀川はトルストイジョン・ラスキンを愛読した。
中学5年の教練の時間に「演習に行くのはいやだ」と銃を投げ捨て校庭に寝転がった。もちろん大きな問題となったが、トルストイの非戦主義、反戦主義の影響だったのではないだろうか。またラスキンについては「ラスキンの女性教育観」という論文の翻訳を卒業後の1906年のことだが徳島毎日新聞に17回にわたり連載した。
さてキリスト教との関係である。賀川は1904年2月マヤスからキリスト教の洗礼を受けた。中学4年15歳のときで、日露戦争開戦直後だった。もちろん英語の勉強のために通いだした通町教会のローガンとマヤスの影響は大きいと思う。家の破産も心の大きな痛手となっていただろう。それ以外にも複雑な家庭環境、トルストイの非戦論や平和主義への共鳴、肺尖カタルと診断された体のこと、などがあるのではないかと推測されるが、賀川の心の動きをうかがえるような資料は展示されていなかった。林啓介「時代を超えた思想家 賀川豊彦」では、マヤスの慈父のようなやさしさと愛情を大きな要因として挙げている。

鳴門市賀川豊彦記念館は2002年に竣工し1階に第1・2展示室、2階に第3展示室と会議室がある。第1展示室は16歳までのおもに徳島での生い立ち、第2は神戸のスラム街での活動および多彩な社会事業、第3は阿波農民福音学校や賀川関連の書籍の展示が中心だった。
10分くらいのビデオ上映あり、展示あり、多数の書籍資料ありで、十分には見ていないが、賀川のモットーだった「友愛・互助・平和」をキーワードにまとめられていて、構成がしっかりしていた。また戦時中の賀川の発言(たとえば満州に関するもの)については「もう一度考えてみる必要がある」というように客観的で批判的なコメントもあり、感心した。
空中征服」という賀川の小説の挿し絵が26点展示されていた。橋下でなく、賀川が大阪市長となり、市政改革を行うストーリーで、挿し絵作成も賀川が行ったが、うまいものだった。
「賀川とゆかりのある人」というコーナーに意外な人の写真があった。評論家・大宅壮一である。大宅が大阪・茨木中学出身ということは知っていたが、じつは途中で退学になり卒業は名目上のような事情のようだが徳島中学専検試験合格なのだ。神戸のスラムにも出入りして賀川と知り合った。それだけでなく、洗礼も賀川から、結婚式にも賀川を招き、賀川の晩年にも自宅が世田谷で近かったので訪問していたことを「大宅壮一の賀川豊彦素描」(加山久夫)で知った。

阿波農民福音学校の建物(非公開)
農民福音学校は農村改良の拠点として、1926年に賀川が兵庫県西宮市の自宅で始めたもので、1932年武蔵野、1939年坂東町の阿波農民福音学校が開校した。害虫、地質学、農村と法律などのほか、賀川が提唱する立体農業の講義や実習が行われた。
阿波農民福音学校はドイツ人俘虜の協力で立てられたドイツ風牧舎の2階で船本宇太郎が開校した。記念館の南500mくらいのところに第一次大戦で青島で捕虜になったドイツ人約1000人の板東俘虜収容所跡地があり、その西側にいまも阿波農民福音学校の建物が残っている。これをモデルにしたのが記念館の建物だ。
ドイツ人俘虜といえば、1920年に賀川は船本とともに収容所を訪れ、酪農やハムづくりを教わったほか、健康保険組合の重要性を知ったそうだ。賀川は1914-16年のプリンストン大学留学中に協同組合の意義を知り「救貧から防品」へ考えを進めたとされるが、それだけでなく郷里徳島でドイツ人捕虜の社会から学んだものもあったのだ。
グローバル化が中間層を崩壊させ格差貧困社会が固定化し、いっぽうアベ政権が開戦までのタイマーを「始動」させているいま、賀川豊彦が提唱した「友愛・互助・平和」の理念を再認識することの意味は大きい

鳴門市賀川豊彦記念館
住所:徳島県鳴門市大麻町桧字東山田50-2
電話:088-689-5050
休館日:第4月曜日、年末年始
開館時間 9時30分~17時
入館料:大人 200円、 小中学生100円(ドイツ館との共通券で割引あり)


☆記念館のすぐ隣に鳴門市ドイツ館がある。第一次大戦で日独が中国の青島で戦い、4700人(うち500人は民間人)が捕虜になり習志野、名古屋、久留米などの収容所で生活したが、1917年に設立された板東にも約1000人の捕虜が収容された。施設にはアイスクリーム販売所、菓子店、ボウリング場、テニスコートもあった。また日本人にギターの手配を依頼したところ届いたのはチェロだったので、数丁のバイオリンなどをもとにオーケストラが発足した。発足1年後の1918年6月1日第九が全楽章演奏された。オーケストラ45人、合唱80人、ソリスト4人の堂々とした編成だった。女声パートは男声用に編曲されたそうだが、苦労だったと思う。日本初のみならずアジア初の第九の演奏だった。いまでは全国どこでも歌われている第九だが、はじまりは鳴門だった。今年は6月4日、来年も100周年で6月に地元で演奏会が開催されるということだ。
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