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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

なにをめざす?「道徳の教科化」

2016年04月07日 | 集会報告
4月2日(土)夜、阿佐ヶ谷の地域区民センターで「なにをめざす?「道徳の教科化」という学習会が開催された(主催:杉並の教育を考えるみんなの会)。
2年後の2018年度から道徳が教科化される。小学校教科書は5月の連休明けから検定が始まる。教科書使用だけでなく評価も始まる。この日の講師は道徳の教科化を考える会の宮沢さんと元大学教員の鶴田敦子さんだった。わたくしは、今年2月の都教委包囲首都圏ネットの集会で宮澤さんの道徳教科書をつくる動きに反対する短いスピーチをお聞きした。また鶴田さんは、昨年10月の道徳科学習指導要領「解説」に関するシンポジウムで、フロアから「評価」についてコメントされていた。もう少し詳しくお二人のお話を聞きたく、この会に参加した。

道徳の教科化を目前にして
         宮澤弘道さん(小学校教員・道徳の教科化を考える会代表)
昨年2月に「道徳の教科化を考える会」を立ち上げた。きっかけは「道徳がいつから教科化されるか」という質問を100人の教員に聞いたところ知っていたのがたった2人だったことだった。
この会でわたくしが訴えたいのは、まず学校教育で道徳を教えることは無理、ありえないということだ。道徳に関する行動にはさまざまな要因がからむ。他教科のように一般化、体系化することはできない。しかし授業ではどうしても二項対立させる傾向がある。たとえば就職試験で急いでいるときに、交通事故にあったおばあさんをみかけたときどうするかというような設問だ。それは洗脳の制度化にもつながるくらいこわいことだ。
しかし2018年度から教科化が始まる。反対するだけでは闘えない。教育系4大学の調査(注1)教員の8割が道徳の教科化や評価開始に違和感をもっていることが報道された。実際に教科としての道徳が始まると、おそらく教員は忠実に教育委員会の方針に従うと考えられる。そこでいまがひとつのチャンスと捉えた。いまのうちに、子どもの内面に踏み込まないですむ授業をできるやり方を考えたい。たとえ検定教科書の読み物教材を使ったとしても子どもたちの内面に踏み込まない授業の組立て方を発信していきたいと考えている。
なお、道徳の内容、たとえば愛国心や郷土愛はダメだが、思いやりや友情ならよいという内容批判ではなく、そもそも子どもたちの内面をこうでなければいけないと指導したり評価すること自体がダメだという形式論で闘いたいと考えている。

東村山第八小学校は道徳の授業のスタンダードづくりをしているといわれる。この学校では道徳ではなく「徳育科」という科目で、標準は年間35時間のところ45時間道徳の授業を行っている。増えた10時間は礼法の時間である。また評価はいま文科省が目指す記述式ではなく先行してA,B,Cの3段階評価をしている。昨年ニュース23でこの学校の「評価」が放映された。また先日行われた研究発表によると徳育科は、「礼節を大切にし、自分に厳しく人にやさしく、主体的に社会に働きかける児童を育成する」科目とのことで、礼法項目として「相手も自分を大切にする挨拶、身なり、態度」「感謝をかみしめ、楽しくいただく食事のマナー」などが並ぶ。
しかし、本来オープンエンドで終わる討論に、評価を下すのだからそもそも矛盾があり文科省の検討会議も昨年中に結論を出すはずだったのがいまもまだ出ていない。

これに対しわたしたちは「できるのかな?『特別の教科 道徳』」(2016年2月 A5  32p定価150円)というパンフレットを作成し、道徳の副教材でひろく使われている「手品師」という物語を取り上げた。スタンダードな授業はまず全文を読ませるが、そうすれば結論(正解)が出ているので話し合いにならない。とりわけ今後、評価まで入るとそうなってしまい「洗脳」になる。
物語のいくつかの場所で区切り、そのつど話し合いをする「分断読み」や、ある場所で話し合いをしそれ以降は読まない中断読みをすれば、生徒の多様な意見、いろんな議論が出てきた。子どもたちの内面に踏み込まないそういう授業実践も紹介している。
道徳反対の運動をするとき、そもそも道徳教育はダメだと主張するとともに、8割の教員が違和感をもっているその状態のまま2018年度の教科化に入っていけるかたちを示していきたい

道徳の教科化のねらいと私たちの課題  
       鶴田敦子さん(元聖心女子大学教授・子どもと教科書全国ネット21代表委員)

道徳の教科化でいちばん懸念しているのは、学校全体が道徳化することだ。現在の学習指導要領でもすでに各教科は道徳と連携することになっている。ところが検討に入っている次期指導要領では、教科の3つの柱のひとつになりそうなのだ。
教育の目標は、教育基本法にいう人格の完成と平和で民主的な国家・社会の形成者育成だが、かれらは人格の完成は道徳性が基盤になるという。しかし1947年の教育基本法制定時にも2006年の改定時にもこのことが問題になり、当時の伊吹文明文科大臣は「人格は、道徳だけでなく、科学的認識や感性との総合的資質だ」と答弁している。それにもかかわらず「学校教育の中核は道徳教育であるべきものだが」と中教審答申(注2)に書いている。
●人により異なる道徳のイメージ
道徳に関するイメージには、しつけ、生活習慣、マナー、社会規範などさまざまあり議論が混乱している。たとえば「あいさつとは何か考えること」は道徳だが、「あいさつしましょう」はしつけや生活習慣になってしまう。わたくしは、人と個人、人と集団、人と社会の関係などに関する価値観を道徳ととらえたい。それは個人の生き方やものの考え方と密接に関係するからこそ、人から教えられるものではなく自ら選び取るべきものなのだ。わたしはかつて10年ほど中学の家庭科教員をやった。戦前の家庭科は家族に従順に尽くす婦徳教育、女子の修身の筆頭教科だったので、戦後の家庭科は修身からいかに離れるかが大きな課題だった。それで道徳科にも大きな関心をもっている。
人間の心の問題だけでなく、社会的背景や生活の現実をみてどうしたらよいか集団で考える自治能力づくり、児童会ごっこではなく小さい問題でよいので自分たちの問題を自分たちでどう解決するかという習慣をつけることが対抗軸としての道徳教育になると思う。
●教科とは何か
教科は、その時代に共通に普遍的真理と認められた科学的知識(学問)を背景に成立する。そこをいい加減にして譲ると無制限にいろんな内容が入ってくるし、いま考えられている道徳科はそういう状態だ。しかしいま文科省がやろうとしている道徳には哲学・倫理学などの学問の裏付けがない。また教科の免許をもった人が教えるべきなのに道徳の免許はない。小学校は担任が教えるにしても、中学で専門教師でない人を配置しその人が評価するところにこの教科のいい加減さが表れている。これは教科の変質であり、学校教育変質の危機だ。教育の「再生」といわれるが、何に向かっての再生なのか。戦前の修身体制に戻るのかもしれない
文科省作成の「私たちの道徳」には、生命といっても動植物のことと、偶然性・有限性・連続性で生命の尊重はない。戦争も平和もなく、人権もないし、沖縄やアイヌの文化もない。偏った道徳で、変すぎるわたしたちが考える道徳を、教師・保護者・市民とでつくっていかなければいけない。  
●文科行政が提起する道徳的価値
戦前の修身で取り上げられた約30の徳目と現行学習指導要領「道徳」の内容項目のリストをつくり比較してみた。するとほぼ一致し、新しく加わったのは小学校の「社会正義」「公共の精神」、中学の「社会参画」だけだった。また現行指導要領を「自分自身に関するもの」「人との関わり」などに分類すると約44%が「集団や社会との関わり」に関するものだった。文科省のねらいは「いじめ」や子どもの問題行動ではなく、地域や国、さらには国際社会というがおそらくグローバル企業に貢献する人間像だと思う。
●子どもの人権を侵す評価
文科省は、押し付けでなく、「考える」「討論する」「問題解決型」の道徳をめざすという。それにもかかわらず強制性が強まっている。
指導要領解説の83の内容項目の学年段階ごとの指導の観点(注3)で、従来「誠実に、明るい心で生活する」などとなっていたのを「誠実に、明るい心で生活すること」などと「こと」を付け加え、強制力が強まった。はなはだしいものでは「人間には自らの弱さや醜さを克服する強さや気高く生きようとする心があることを理解し,人間として生きることに喜びを見いだすこと」というものまである。「喜びを見いだす」ことまで押しつけており、完全に生徒の内面に踏み込んでいる
評価は点数やABCでなく、文章評価の方針だ。子どもを励ます評価というが、励まされた生徒にすればますます文科省の価値に向かわされ、二重の刷り込みとなる。文章評価だからよいとはまったくいえない。
またテストの成績だけでなく、口頭発表、ロールプレイイングなどパフォーマンス評価を行うという。なかには、最高の5点は「聴き手ととアイコンタクトを取っているか」というものまである。子どもの人権を無視した評価が始まる。まだ論点整理の段階だが「自分の感情を抑制する能力」を道徳教育の柱とすることまで検討されている。
●道徳・規範教育強化のねらい
安部政権は「経済大国」と「戦争をできる軍事大国」の2つの大国を目指している。安倍教育政策は二つのレールを走るために必須の条件であり、経済大国を支える人材づくり、レールを支える砂利・砕石づくりなのである。向こう側は人的資本などと人間扱いせず、もの扱いしている。

質疑応答で、現場の教員の方から驚くべき実態がいくつか紹介された。
・いまは小学校で担任する学年の希望もとらない時代なので、自分の意思を出してよいのかすら躊躇する教員がいる。
・クラス目標として「平和を希求するクラス」という掲示を教室に貼りだしたら、校長からストップがかかった。理由は「平和ということばは思想的だから」だという。多くの教師はそういう事情がわかっている。たとえば戦争に関する書籍コーナーをつくり「はだしのゲン」を置くと、同僚の教員が心配して「それはまずいでしょう」と先にいう。
自主規制がはなはだしく、教員は思考停止になっている。そうしないと生きていけない。・校長とその側近だけで学校運営をしている。組合も認めているようでなにもいわない。しかしそうした状況でも追及を続けると校長が謝罪した。建前が生きているあいだにやれば、やれることもある。
道徳教科書についての質問もあり、鶴田さんから「もちろん検定や採択の段階でいままで以上に懸命に闘う。一方で教科書の使用義務があるので使うが、使いながら子どもたちと批判的に検討していくことが重要だ。文科省も「考える道徳」「討論する道徳」「押しつけてはいけない」といっているのだから、したたかにやっていく。知恵は出せる」というコメントがあった。

最後に鶴田さんは「20年がんばると歴史を変えられる。先輩も含め30年近くがんばって家庭科の男女共修が実現した。知恵をだしあってがんばろう」と訴えた。宮澤さんは「教師はロマンを語れる仕事、ロマンチストであることが許される数少ない仕事のひとつだ。子どもたちに理想を語れなくなるとこわい。これからも理想を示していきたい」と決意を述べた。

注1 「教員の仕事と意識に関する調査」 2015 年 8月中旬~ 2015 年9月中旬 有効回答数5,373 このサイトの18p
注2 道徳に係る教育課程の改善等について このサイトの2p
注3 小学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編  このサイトの24p

☆この学習会には土肥信雄さん(元・三鷹高校校長)も参加していた。司会からコメントをもとめられ「東京都の教育はいま思想統制がはなはだしい。それは業績評価を導入した結果ともいえる。自分は都教委との裁判で負けたが、都教委は裁判で明らかなウソをいっていた。たとえば評価は絶対評価といっていたにもかかわらず、校長会で「20%以上出せ」と相対評価を求めた。ところが裁判ではじめのうち「そんなことはいっていない」と主張した。道徳教育を受けるべきなのはウソばかりいう都教委のほうだ」と述べた。
たしかにそのとおりで、日の君処分だけで累計477人もの処分を連発した都教委は裁判で12連敗、
連敗街道を驀進中だが一度も原告の教員に謝罪しない。それどころか追加で戒告処分を出したりしている。
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