polaris

気の向くままに書き連ねた呟き達。
頭の整理、足跡確認。そんな目的でやっています。

2016.12.13

2016-12-13 17:26:39 | 日記

かなり、お久しぶりです。

大学生活も終わりを迎えつつあります。


新社会人。新しい土地。
昔はこういった変化がわくわくでしかなかったのですが、
今いる人達と離れたくない、変化するのは不安、なんて思うようになったのは、
歳のせいでしょうか。

歳を取ると保守的になるんですかね。


このブログを始めて訪れた人のために書き記しておくと、
このブログは記憶の整理につかっているメモ代わりであって、
完全なる独り言です。

何か発信しようという主旨のものではありません。




さて、最近分かってきたこと。

人には何かを認識する時に聴覚優位、視覚優位、言語優位など脳の個性があるようで、
そのうち私は視覚優位にあたるようです。


確かに、写真のように見たものを記憶するのは大得意で、
昔からずいぶんその記憶するすべに助けられてきました。

そして、全員がそんなものだと思っていたら、どうも違ったようで、
人によっては音や言語で記憶している人もいるのだと知りました。


もちろん、私が音や言語で記憶することが全くできないのかというと、そうではなく、
すべてを使って記憶し、その情報を操作し、生活を送っているわけですが、
中でも視覚的な記憶を使うことが多い、得意だ、ということです。


ただ、視覚的な情報を使って考えてそれをアウトプットしようと思うと、
情報量が膨大過ぎてどう表現したらいいのか悩むことが度々あります。

最近は、頭の中で文字の「映像」の情報(文字情報、ではない)をパズルのように操作して文章を組み立てて話す、
ということでどうにか表現しているのですが、
おそらくは処理工程が人より多いのでしょうか、
話したいと思ってから実際に話すまでのタイムラグが生まれてしまいます。

言語を使ってロジカルかつシンプルに説明できる人に、素直に憧れます。



かつ、私はワーキングメモリーの容量が人より少ないような気がして仕方がありません。
さっき頭にあった情報が、時間の経過とともに片っ端から消去されていくのです。
ですから、目に見える形での記録は私にとって欠かせない存在です。

たとえば、普通の人は暗算でできる程度の計算であっても、
計算過程が2~3段階以上を要するものになると、
私には視覚的に記録を残せる紙とペンが必要です。

こんな風なので、計算以外の場面であっても、
話したいことを忘れる、途中半端なやりかけを大量生産してしまう、
なんてことも日常茶飯事です。

かわりに、目に見える形で全体像を記録してしまえば、
人よりたくさんのことを正確に記憶することができる、という長所と言えば長所のようなものもありますが。

日常生活を送るにあたっては、瞬間、瞬間で消えてしまうものがほとんどを占めますから、
私の様な人にとっては苦労も多いのです。


どうしたら欠点を補いつつ、長所を生かしつつ、
日常生活をうまく回せるのだろうなぁ…。

その方法を模索する毎日です。



2016.05.25

2016-05-25 18:34:34 | 日記

今 考えていることを書き残します。
完全なる自己満足です。
(今に始まったことじゃない。)


自分でもつっこみたくなるくらい恥ずかしい文章ですが、
書く後悔より、書かない後悔、です。


昔の自分と、未来の自分に宛てた
手紙です。




【15歳の私へ】

こんにちは。22歳の私です。


あなたは今、

住み慣れた家を出て、
何度も表彰台にのぼった陸上をやめ、
1位になれる学習環境を抜け、
誰も知らない場所での生活をスタートさせた頃。


自分で選んだ道。
しっかりと歩みを進めてください。


あなたはこれから、

沢山のものを失い、
大切なものに優先順位を迫られ、

自分が商品となって価値を評価され、
明日 価値無しと判断されるかもしれないと怯え、

潰れてしまいそうになるほど多くの
挫折 恥 批判 を
経験します。


どうか、


あなたが見ている景色を、
私にはもう見ることができない景色を
しっかり目に焼き付けてください。

あなたのまわりにいる人を
私にはもう会えない人を
大切にしてください。


大きな問題に直面したとき、
決断をできるだけの
思考力と自分の軸を 鍛え続けてください。


決して歩みを止めないでください。
逃げないでください。



今、
私は笑顔で毎日を過ごしています。
1日1日が幸せだと思っています。


最後に。

今日まで歩き続けてくれて、
ありがとう。




【30歳の私へ】

こんにちは。
22歳の私です。


社会人になったあなたの、

家族は元気ですか?
何処で暮らしていますか?


毎日ハッピーなあなたのことです。
心配はしていません。



一生懸命、頑張っていますか?

あなたには、それしか能がありません。

仮に、高度な資格や技術を得たとしても、
やっぱり、あなたには一生懸命さしかありません。

それを、忘れないでください。



人を大切にしていますか?

競争社会にもまれたあなたは、
「きれいごと」の一言で
片づけてしまうかもしれません。

決してきれいごとではない。

人の大切さを実感した時、
目に映った景色が
綺麗でなかったのが証拠です。



人にしかできないこと、できてますか?

どんなに機会が優秀になろうとも
最後は、人の手です。
何のための技術なのか、
目的と手段の関係を忘れないでください。



今、私は、
仕事の選択、もっと言えば
人生の選択の岐路に立っています。


自分が選ぼうなんて、思っていません。

誰に選んでもらえましたか?
なんで選んでもらえましたか?
それに応えるあなたであれていますか?


その場所で働くあなたに
会えることを楽しみにしています。



それでは、くれぐれも体に気を付けて。







おっしまい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。



2016.03.07

2016-03-07 13:41:01 | 日記


かなーーーーーり、お久しぶりです。

今日までにも、いろいろなことがありました。

この2年間で、
祖父が亡くなり、自身の手術があり、祖母が亡くなり、
家族のかたちが大きく変わりました。



そして今、
就職活動の真っ最中。




就職活動といえば普通は、
業界研究、テスト対策、面接対策などなど…
そんなことをするようですし、
私もいわゆる就職活動と言われることをしている一人です。


ですが、おそらく皆さんと違うのは、
一般にいう就職活動よりも比重をおいて考えているのが、
住まい選び、将来設計だということです。


相続・土地・介護に子育て…そこまで深く相談できる人は、
なかなか現住所にはいないので、
もっぱら地元の先輩に頼ってばかりいます。


地元がど田舎なもので、
都会で就職すると、おそらく100%帰ることができないのです。


どこに住むかで、人生が変わる。


就活対策なんかよりよっぽどこちらの方が大きな問題なのです、
私にとって。



考えれば考えるほど、
等身大の自分を正面から見られるかが、
そして、感情に左右されずに家族のことを考えられるかが、
重要になってきます。


大事な、大事な、選択を迫られたとき、
大切にしてきたものに優先順位をつけることになります。

全部、欲しくても、守りたくても、
そんなことできないんですよね。



「何を大事にする?」



……。




私の答えは、「人」です。


でもそれだけでは、住居を選べない。
大切にするのは、親?自分?まだ見ぬ子供?



考えて、考えて、
一番大事なのは、「子供たち」だという結論に。

だって、親世代も、自分たちの世代も、100年後にはいませんからね。
未来をつくっているのは、他でもない子供たちの世代。


都会に住んでいる人は、そのまま住んでもいいと思うのです。
だって、病院も、お店も、学校も、塾も、そろっているのだから。


ですが私の地元は、消滅都市といわれるど田舎なのです。
子供たちの世代には、学校や病院がなくてもおかしくはないのです。


また、私や親が抱えている、代々受け継がれてきた土地の問題(けっこう広いんです、これが。)も、
私が実家を継いだところで、問題を子供たちに後回しするだけの話ではないかと思うのです。


ではいっそ、実家を両親の代で終わりにするのも…ありなのかな?と。
極端な話ではあるのですが。しかし、可能性はある話なのです。


そうすると唯一心配なのは、両親のことです。

あの無駄に広大な土地と家で、現在暮らしているのは二人。
もし片親が亡くなったとして、一人で暮らしていくのか?
そう思うと、心配でなりません。


では、都会に来て一緒に暮らすのか?
70をこえた両親が、
知り合いが一人もいない土地、ルールもわからない都会で?


しかし、老人ホーム、という選択肢は私の中にありません。
自宅で暮らして、時々趣味をして、老人会に出かけて…。
…叶わないのかな?
そんな老後を過ごしてほしいなぁと思っています。
福祉を学んできた者としても。




あとね、余談ですが、
実家の家は、父の夢、なんですよ。

なんでかって、ね。

父は若いころ建築士になるのが夢だったそうで、実際建築士の資格を持っております。
今はまったく違う仕事をしているのですが。

それでも、
毎週、某リフォーム番組を見ていますし、書店に行くと家のデザイン本を眺めています。

そんな父の夢が唯一かなったのが、私の実家なのです。
父が設計して、唯一、カタチになったもの。

大切に、したいなぁと思っております。
きっと使うのが一番なんです。

だって、子供が、孫が、走り回っている暖かい家庭を思い描きながら、設計したんだと思うから。

どうにか、カタチだけでも…保存できないかしら。






うーん、やっぱり私は
欲張りな性格なようです。





最後までお読みいただき、ありがとうございました。

2015.09.17

2015-09-17 23:03:57 | 日記
誰でも一度は人との関係の中に身を置くことの心地よさを体験してほしい。
2015年現在、私はそう思っています。


(※書きたいことを思い付いたままに書いていきます。)



私に「自閉症」の詳しい症状や原因の知識はありません。

ですが、多くの人と比べると
相手の感情を読み取りにくい、
よく言うところの「空気」を読みにくい、
といった特徴を見受けられるのが自閉症の中の一つにあります。


自閉症を考えるにあたっての視点として、
「社会」「脳科学」「教育」など様々あります。
考え方も原因も対処法も、一つではありません。

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そもそも病気や障害や、身近な問題一つを取ってみても、
原因⇒結果 の原因が1つだなんてことはほぼ無いというのが
私の持論でして、
そもそも矢印の向きだって逆の場合も現実にはあるのではないかとも思っております。

ですが、自分を含む多くの人は、
白黒はっきりつけたがる。
すぐに点数化したがる。
しまいには、答えがはっきりしないことに対して
徹底的に排除しようとする姿勢すら見せる。

そんな対処療法ばかりでは、物事は一向に進まない。
見ている世界の99%は曖昧なまま終わりを迎えるわけで、
急いで答えを出したところで
50年後100年後にはその答えはひっくり返される。


ゆっくり考えていても答えはでない、
だけど
急いでも答えは出ない。

どっちがあなたの主張かと言われたら
その両方が私の主張であって、
「どっち」を求める時点で曖昧さを嫌う姿勢なんだと思います。


人間ってそんなに単純じゃない。
まして、その人間が複雑にかかわっている社会が白黒はっきりするわけがない。


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さて、話が大きく逸れてしまいましたね。


自閉症のある方についても、私たちは完全には理解できないと思っています。
(誤解の無いように言っておくと、その努力をすることがもちろん前提にあります。)

冒頭の思いを成し遂げるためにどうしたらいいかなんて、もっとわからない。


自閉症のある方に見えている世界って、
どんな世界なんでしょう。

人と仲良くしたいと思っていないのではない、むしろ仲良くなりたいと思っている。
でも、なぜだか自分はうまくいかない。

友達の輪の中にいると
自分には理由がわからない「笑い」が確かに目の前ではおこっていて、
意図せず相手を怒らせることがあって、
気付いたら友達がいなくなっている。


相手のことを考えていないのではない、むしろ考えている。
でも、自分が思っていたのとは違うリアクションが返ってくる。



これらは、非言語的な表現から相手の気持ちを読み取れないために起こると考えます。

だれしも100%相手の考えていることをわかることなんてできません、
それを少しでも知ろうとして、表情や行動から情報を補っている部分は多いはずです。

日本に多い「暗黙の了解」はそれらの情報があって成立するのではないでしょうか。


自分の内側と外側に世界を分けた時に、
普通は外側から得た情報をもとにコミュニケーションをとるのですが、
自閉症のある方は自分の内側の情報だけでコミュニケーションをとっているのではないか。
だって、外側からの情報を得られないんですから。



相手と対峙するときに、
まず第一に、相手をフィルターを通さずに見ることができない。
第二に、行動や発言の持つ「意味」…それは一般的な定義とイコールとは限らない…を理解できない。



「自分が」見る相手。「自分が」聞いた相手の言葉。

あくまで「自分が」であって、「相手が」ではない。
「相手の立場に立って」という思考ができない。

であるから、相手が自分に求めることがわからない。
ニーズが分からないから、対応のしようがない。

「キャッチボール」ができない。




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自閉症と脳科学…視覚優位、聴覚が劣る…これに根拠があるかどうか
私にはわかりません。
でも、なんらか関係があるような気はするんです。

が、この話はまた後日。


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コミュニケーションって、障害がない人でも頭を悩ませることであって、
だからこそ、「思いが通じた」と思えた瞬間は嬉しいし、
分かり合える関係に心地よさを感じるのではないでしょうか。


でも、自閉症のある方にはその体験がないとしたら。


無くて悪いのではないですが、
有ったらいいなと私は思うのです。

エゴかもしれないけれど。


社会のネットワークに必ず入っている必要もないのですが、
そこから完全に零れる人がいるとしたら、
かなしいことだと私は思うのです。



誰もが心地よく暮らせる社会になったらいいな。

心地いいというのは、単に楽なことを指すのではなく、
かなしさや怒りも含めた「心地いい」。
それも人生の味だし、それをみんなで共有したらいい。

独りでなかったら、大丈夫。
かなしさや怒りだって「心地いい」になる。


だれも「独り」にならない社会に、していきたい。




2015.07.16

2015-07-16 15:03:40 | 日記
クリスティーナ・ロセッティ"the wind"を読んで
浮かんだ光景を書き残しておきます。



「父」
それは戦後、晴れた空には白い雲が流れていた。
森の中に1つたたずむコテージから、ころころとボールが転がり出た。
まもなく5歳ほどの少女が追って出た。
少女はそれを拾い上げると、空をのぞかせる木々の葉の広がりを仰いだ。
葉を見て、風を見た。
少女は笑った。