ぽんぽこタヌキの独り言 Solilokui dari Rakun Pompoko

日本を見て、アジアを見て、世界を見て、徒然なるままに書き記す、取るに足らない心の呟き

「関西」と「関東」

2011年07月23日 01時37分42秒 | Weblog
前稿で「近畿」と「関西」について触れ、その中で「五畿」あるいは「畿内」をガードする3つの「関」=「関所」の西側がいわゆる「関西」であると説明したわけだけれど、実は当時設けられた3つの「関所」は「畿内」または「五畿」といわれる、当時としては日本の「都」=「中心部」をガードする「関所」のラインであったわけであり、「関所」の西側は「関西」という認識よりも「畿内」という認識のほうが強かったと考えられ、逆に「関所」を通り抜けた東側が「関東」であるという認識が先にあったと考えられるのである。まず「畿内」が存在し、3つの「関所」の東側としての「関東」が認識され、そのあとに「関東」の対極としての「関西」というエリアが認識されたというのが順番であろうと考えられるのである。その昔、「相模」「武蔵」「上総」「下総」「安房」「常陸」「上野」「下野」を「坂東八カ国」と呼んでいた。
ここで、「関東」というエリアに遷都がなされた江戸時代の前後において、この「関東」という認識がどう変化したかを見てみようと思う。古代、奈良を中心とした「関西エリア」の事を「大和」と呼び、「関東エリア」の事を「東国」とか「坂東」と呼んでいたようである。昔、関東地方の武士の事を「坂東武者」と呼んでいたし、「利根川」の事を「坂東太郎」と呼んでいた。「坂東」という地名は、現在、「坂東市」として残っている。そもそも「坂東」という地名は、そのまま読めば「坂の東」ということになる。そして、その「坂」とはどこの「坂」かというと、実はこれは足柄峠や唯氷峠などの山を「坂」と見立てて「坂の東」としたようである。 話は少し離れるが、現在、我が国の国名「日本」は「ニホン」と読むか「ニッポン」と読むかということでしばしば議論されたりするが、その昔「日本」=「日の本」=「ヒノモト」であり、これは「奥州」すなわち「陸奥エリア」を示す地名であるという説もあるようである。当時、「日本」の事は「倭」とか「大和」という名前で呼ばれており、「奥州(陸奥エリア)」の「日の本(ヒノモト)」という地名が「関東エリア」の「坂東」という地名の上を飛び越えて、我が国の国名「日本」として定着するに至ったかは、慎重な調査分析が必要であろう。話を元に戻すが、もう一つ「関東エリア」を示す言葉に「首都圏」という言葉がある。「関東」∽「首都圏」で、「関東エリア」に「首都」が移されてきたのは江戸時代であるから、これは間違いなく、「関ヶ原の戦い」が終了した1603年以降であり、比較的新しい名称であると考えられる。さらに言うならば、江戸時代に「首都」という表現があったかどうかを考えると、当時は「お江戸」が将軍様のお膝元であるので、「首都」は明治以降に使用され始めた表現であり、現在の「首都圏エリア」を明確にしたのは、1956年の「首都圏整備法」によるものと推察される。この「首都圏整備法」では、東京を中心とした「1都6県」を示す「関東エリア」プラス「山梨県」と明確にしている。ただ、「関東」に関しては、「近畿」と「関西」にみられるような名称としての「煩わしさ」や「曖昧さ」は存在しない。なぜなら、「坂東」という名称は、現在、茨城県の1つの都市として存在しており、「首都圏」は法令で明確化されたエリアであって、一般名称として使用するには「しっくりこない」からだと個人的には思うのである

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