風のアダージョ

切なさの向こう側、樹木を渡る風笛が聞こえる

幸福のレシピを捨てる時(中)

2017-07-16 | 自作小説
【四】

 遥は、父親の広告会社に籍を置いている。映像部に所属して、シノプシスライター兼雑用全般が仕事である。シノプシスライターという正式職業があるわけではなく、遥が勝手につけた肩書きだ。英文で送られてくる映画のプロットを翻訳して、短いあらすじにまとめるのだ。DVDのパッケージのウラに、ストーリーが簡単に書いてあるあれだ。たまに入ってくる仕事なのだが、社長の亮介は、頼み込まれると断りきれない人の良さがあった。そういった小さな仕事が、遥の担当になる。
 そんな亮介の会社に、高木淳也は大学卒業後入社して6年が経つ。出張の多い広告事業だが、淳也の前向きな仕事ぶりとセンスの良さを、亮介は高く評価していた。何よりもウマが合うと言って気にいっている。今夜も関西出張の帰り、報告を兼ねて立ち寄っていたのだ。淳也が遥の帰りを待っていたことはよくわかった。淳也は遥と10分ほど話して帰って行った。
その夜、遥は眠れないまま自室にいた。引き出しの奥に大切にしまってあった、思い出のCDを取り出す。ブラームスの交響曲が、夜更けの部屋に流れ始めた。


ブラームスは交響曲を4つ作曲しています。
その中の、第一番第二楽章をお聴きください


【五】

 小野寺悠太は喫茶店を出ると、青山通りを左折して自宅マンションのある千駄ヶ谷の方に向かって歩いていた。さっきのハルカという娘の顔がちらつく。夕餉の匂いがどこからともなく漂うこの時間帯を悠太は好む。”今度の休みに、おやじさんとおふくろさんの顔を見に信州に帰省してもいいな”そんなことを思いながら、久しぶりに穏やかな気持ちを味わっていた。
 マンションのドアを開けると、ミドリが走り出てきた。
「悠ちゃん、お帰りなさい!」 「ミドリ、来ていたの?連絡くれればよかったのに。」
「うふっ、悠ちゃんを驚かせたかったのよ。お食事は?」 「済ませちゃったよ。君は?」
「あなたを待ちながらワイン飲んでたのよ。おつまみも作ったの、一緒に飲みましょ。」
ミドリは機嫌がいい。二人は結婚してすでに4年が経つ。ミドリはメーキャップアーティストとしてかなりの地位を築いていた。結婚が決まった時、別居結婚を主張するミドリに悠太は困惑した。自分の能力がどこまで活かせるかやってみたい。30歳になるまでのあと3年だけ我慢してほしいという言葉に、悠太はしぶしぶ承諾したのだが、その3年が過ぎた今でも状態は変わっていない。
名の知れたIT企業に勤務する悠太の収入で、十分やっていける。仕事も続けたければ続けても良いと、何度も話し合った。しかし今では、すでに話し合う気力も失っている悠太だった。
 ミドリは風呂から上がり、うすい寝間着に着換え鏡台の前で夜の支度をしている。悠太はそれをぼんやりと眺めながら、自分の望んだ結婚はこんなものではなかったと思う。
「悠ちゃん、何考えてるの?」明かりを小さくしてベッドにすべり込んできたミドリは、甘いコロンの香りを放ちながら足を絡ませてきた。

【六】

 一週間後、遥は、”カフェ サントノレ”にいた。コーヒーをおかわりしながら、すでに小一時間いる。
”何を期待してるのかしら、、バカね。” と、心に呟き、もう帰ろうと立ち上がりかけた時、ドアが開き悠太が入ってきた。目が合う。瞬間、同じ思いでカフェに来たと、二人にはわかった。
 悠太は、遥の席から一つ空けて坐った。無言の後、悠太から話しかける。「また会いましたね。」「はい。」遥が応える。あっという間に時間が経っていく。駅まで送っていくという悠太と一緒に店を出て、表参道を並んで歩いた。
 華やかにディスプレイされたショーウィンドウに、並んで歩く二人が映る。温かい想いに満たされながら、次に会う約束をして二人は別れたのだった。


To be continued

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