風のアダージョ

切なさの向こう側、樹木を渡る風笛が聞こえる

罠 (四)

2017-07-18 | 自作小説
 あの年は、いつになく猛暑だった。結城賢治は大学生活最後の夏を、例年長野県の菅平高原で行われる、ラグビー部の夏合宿に参加していた。
斜面を掛け登ったり、傾斜を利用したモール練習をしたり、菅平でしかできない練習に明け暮れていた。

 そんな厳しい練習の中、結城は体調を崩し、一日だけ練習を休んだ日があった。
午後になり、気分も快復したので外出の支度をしていた。いつも世話をしてくれる仲居が、結城の様子を見に来た。
大人しい女で毎年顔を合わせて顔みしりではあったが、口を利いたことはほとんどなかった。
「もうお身体大丈夫ですか?」 「ええ、ありがとう、良くなりました。その辺をぶらついてきます。」 「今、一番暑い時間ですよ。無理なさらないでね。」
合宿に来て以来、久しぶりに聞く女性の優しい声に結城は胸がざわつくのをおぼえた。女は、片づけを始めた。小柄な女で、結城が臥せって寝ていた布団を押し入れにしまう時、よろけそうにしている。結城は、とっさに女の後ろから支えてやった。
汗にまじって女の体温が伝わってくる。髪の毛が結城の鼻先をくすぐった。一瞬の出来事だった。正気に戻った時、女は後ろを向いて服の乱れを整えていた。その白い背中とうなじにまとわりついた髪の毛が、事の事実を告げていた。

 その女の細い後姿が結城の脳裏にいつまでも焼きつき、後々まで苦しめた。なぜあんなことになったのか?自分でもわからない。若気の至りとしか言いようがなかった。女が抵抗したのは、ほんの数分であった。声を上げ抗うことは容易にできたはずだ。それをしなかった女の胸中を、結城ははかりかねた。女は30歳を過ぎたばかりだろうか、女の出方が気になって、いつ皆に知れてしまうのかそればかりを思いビクビクとしていた。
 しかし、無事に合宿は終わり、明日は東京に帰るという日になっても何事も起こらなかった。安堵感とともに、新たな不安と悔恨の念が湧いてくる。
このまま黙って、帰るわけにはいかない。いや、蒸し返さずにこのままやり過ごして黙っていた方がいいかもしれない。そんなことを思う自分の卑怯さを恥じもした。しかし、何も言ってこない女に対して、責任の取りかたが若い結城にはわからなかった。

 朝の出発間際、思い切って女に会った。「あの、これを。すみませんでした。」
それだけ言って、封筒を渡した。
”自分を恥じいっています。いまさら謝っても許してもらえないと思うのですが、申し訳ありませんでした。”
 自分の過ちををしたためるしか、その時の結城にはできなかった。女は、黙って封筒を受け取った。何も言わず、ただ結城をジッと見つめていた。それで終わりだった。東京に帰ってからも、しばらくは心配していたが、女が訴えてくることはなかった。
そうして時は流れ、結城の記憶からその女は風化して行った。


To be continued

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