かくれて咲く花

~凛として~

March comes like...

2014-03-01 16:21:57 | Weblog

ところどころ雪がのこっていた東京は、2月のおわりに4月上旬の春の陽気

2月は風邪インフルに見舞われ、その後も咳が続いてずっと具合が良くならなかったので早くあたたかくならないかなあと、春が来るのが心底待ち遠しい日々でしたが、このところ日差しのなかには既に春の訪れを感じていましたが、こうしてひとあし先に?ごあいさつに来てくれますと、季節は確かに春に向かっていて、これからは日に日にあたたかくなっていくんだと確認できて嬉しくなります「もうあと少しのがまんですよ」と、春の天使がお知らせにきてくれたような陽気でした

しかしこの風邪インフルはかなりしつこくて、ちょっと動くとまたすぐ具合が悪くなる・・・というのの繰り返しで、なかなか体調が戻らなくてしんどかったのですが、マッサージの先生に「そりゃインフルエンザだったんですから、身体はかなり、思っている以上に消耗していますよ。体内では、ウイルスとの大戦争が起こってたようなものですから、戦ってくれた身体に感謝しないと!!!」とご指摘を受け、ずいぶん寝てたからかなり休んだつもりになっていましたが、「体の内側では大戦争が起こっていた」という上手いたとえに感心しつつ、「うめ」国の戦力(免疫力)を考えても、敵(ウイルス)の侵入は許してしまったけど事前のflu shotで多少の防御壁は築いておいたこと、そしてくまさん先生による早期発見&空爆(吸引投薬)により敵の戦力を削いだこともあり、なんとかインフル軍を撃退することはできましたが、体内ではウイルスだけではなく、わが国の多くの免疫兵士たちも死屍累々であったことが、実際見てきたわけじゃないけど想像できます。「うめ」軍の戦力は決して盤石とはいえないのに、強敵・風邪インフル軍と戦い抜き、激戦の末なんとかこの“2014如月の戦い”に勝利をおさめてくれたこの身体が、より愛しくなります。いつも無理させてごめんね&ありがとうね

ちなみに「うめ」国政府発表によりますと・・・「うめ」国の“戦力”は自衛のために必要最小限の能力を有する部隊であって(Self Defense Force)、仮に“戦闘行為”が発生する場合はあくまで自国を防衛するためのものであって、周囲の国々へ先制攻撃を仕掛ける等の意図はまったくありません。これはウイルス等身体的な打撃を受けた場合のみならず、悪意やイヤミ等精神的なダメージを狙った攻撃に対しても、この「うめ」国自衛方針が変わるものではございません。ただ、友好国が攻撃を受けた(あるいは受ける可能性がある)場合におきましては、駆け付け救護や早期警戒情報の共有、空爆等、「うめ」国が保有する“戦力”のうち、わが国並びに友好国の平和と安全確保に資すると判断した場合、最高指揮官(「うめ」国内閣総理大臣)の判断により、これを提供することは“自国の平和と安全にかかわる事態”として、適時適切な行動をとることは必要であると考えております。

「うめ」国総理は、国是たる「自由・フェアネス・多様性の尊重」という価値観を共有している国家との友情を大切にしておりますからね

この際なのでちょっと触れておきたいのですが、このブログでは人間関係についてあれやこれやと綴ってきたこともあって、私なんかよりももっとずっと苦しい思いをされておられる方や、つらい境遇にいらっしゃる方が、なにかに引っかかってここをおたずねしてくださったのかな、ということを、時々お寄せくださるコメントなどから感じておりました。私「うめ」も、この世知辛い地上でいろんな思いはしてまいりましたが、人間やってると本当にいろんなことがありますし、自分が置かれている状況なんかよりもずっと苦しい思いをしておられる方は世の中にたくさんいるんだ、ということを忘れてはいけないなと反省いたします。たまたまここへたどり着いてこられた方だけでなく、つらい思いをしておられる方々(小さな子どもたちは特に)が、一日も早く元気に幸せに過ごすことができるようになりますようにと祈らずにはいられません

私「うめ」は、いろいろあってしんどいときはひたすら「無」になってドラクエをやったりする以外にも、今日書いたような、自分を主権独立国家、周りの人間関係を国際関係と見立てて、外交と同じように考えることは状況を客観的に捉える訓練にもなり、心も救われることが多いので、もし社会科学系がお好きな方は、こういう方法もご参考になればと思います。でもほんとに辛いときは「トムとジェリー」を観ても笑えなかったくらいでしたし(→how seriousであったことか)、なかなか頭では分かっていても、心に渦巻く曇りで気持ちも沈んでしまったりしますから、こんなふうに“遊べる”ということは、それだけ心の余裕が生まれた(深刻な状況は過ぎている)ということでもあって。とはいえいまも、ちゃんとまばたきして息をする以外、ほぼすべてのスイッチをオフにして心を守っていないと結構しんどい状況にあったりもします。それは一日のうちで限られた時間ではあっても、やはり心の澱というのは溜まっていきますので意識してメンテナンスをかけてはいるのですが、こういう対処の仕方(心のシャットダウン)は、自分の心が氷のようになってしまっているからなんだろうか、と自問することもあります。本当に心が凍り付いてしまってはいけないけど、だけどきちんと守るべきは守らないと身体がもたないのも事実なので、ドラクエ的にいえば、「ぼうぎょ」に徹するところは徹して、そしてレベルアップのために外へ戦いに出て行くというのがいま私にできる精一杯のことなのかな、と思っているのですが。

真央ちゃんのことばどおり、誰も自分と代わってもらえるわけじゃないし、自分の運命は自分で引き受けて、乗り越えていくしかない。それぞれが、それぞれの「自分との戦い」において、それぞれ置かれた状況のなかで大変なのだと思います。自分はそういうことは絶対しない、と思うことを毎日見たり聞いたりされたりするのは大変なストレスではありますが、人は自分がされてきたこと、特に「自分がいやな思いをさせられたから、同じことを他の人にしてやろう」と考えてやる人たちは、残念だけど実際世の中にたくさんいるのも事実ということも知りました。たとえば姑にいびられたからとか、先輩にいじめられたから、自分が同じ立場になったときは、同じことをしてやろうと思って嫁や後輩にいやな思いをさせるとかね。だけどそういう“負の連鎖”は誰かがどこかで断ち切らないといけないと思うんです。自分がいやな思いをしたからこそ、こんな思いはほかの人にはさせたくない、自分はそういうことは絶対しないと思わせてくれる環境は、しんどいけどやはり世の中のいろんな側面を学べた。キョウレツな苦痛は伴いますが、そういう経験ができたことに、感謝の思いは持っていたいとは思っています。

私が大切にしている人たちはみんな、尊敬や信頼、思いやりややさしさをベースにしたあたたかな友情が通い合う素晴らしい方々ばかりですし、しかしそんな人たちだけで世の中が構成されているわけではないということもさすがに分かってきましたし。だけどまあ、世の中の多様性(負の側面)はもううんざりするほど見せてもらったから、もっと「ええもん」が見たい、というのが正直な気持ちでもあってもちろん自分も至らないところはたくさんあるから自己反省も怠ってはならないのですが、信頼も尊敬もできないような人たちに対しても、「こういう世界もある」ということを教えてくれてありがとう、というふうに思いつつ、でもあんなふうに仕返しや意趣返し、イヤミや当てこすりなど、私にはやっぱりできないな、としみじみ思います。できないというか、そもそもそんなことすることは恥ずかしいことであり、「やられたらやり返す」という発想が自分のなかにないということに加えて、結局のところそんなことにエネルギーを使うのはアホらしい、ということに尽きるんですけどね。彼ら(=ダークソウルズ)はそういうことに命かけていて無限に仕掛けてきますから、あっち側からの攻撃に終わりはないので、まともに相対してたらこっちは疲れ果ててしまうだけですもの。

でも状況を冷静に観察できるようになってくると、人の「意図」を見抜けばたいしたことはない。なぜなら人は自分のなかにあるものしか口に出さないし、人の行動はその人の内面の反映そのものであるから。これは本当に見ていても面白いほど人はこの通りに動きますね。だから誰かが何か言ってきたとして、人を傷つけようとして言ったりやったりしていることは、そのままその人が同じことをされたら傷つくからやってるんだろうな、と分かってくる。「ああ、この人はそういうことをされると自分が傷つくから、ほかの人も同じように傷つくと思ってやってきてるんだなあ」と、いい悪いの判断を抜きにして眺めるような感じでいると、まああんまり見てて楽しいものではありませんが、彼らは無意識のうちに自分の「意図」と「弱点」を同時にさらけ出している、ということが分かります。なんてご親切なというか、「かしこさ」のレベルもよくわかるというか。決して理解はできませんが、なんでそんなことするのかな、という疑問への回答にはなるというか。

だからといって、彼らの弱点が分かったとしても、それを突くようなことをわざわざ言ったりやったりして彼らと同じ土俵に乗ってやることなんかありません。自分にへばり付いてきた泥はちゃんと落として(毎日洗濯が大変ですけどね)、世の中にはそういう人たちがいるんだなあ、と流せるようになればこっちのものです。これをにこやかにできればいちばんいいのですが、私はまだまだ修行が足りないので、顔はすごく無表情(-_-)ですが、心のなかではそういう観察眼でもって対応するようにしています。無表情でいること=冷たい、と思っていたのですが、「顔に出さない」のは「感情を悟られない」という武器にもなるんだな、ということも最近の発見。何を言われてもやられても無表情でノーリアクションを貫いていると、こちらの反応を期待してやってくる側としては、期待外れというか、ある種の気持ち悪さがあるのかもしれません

でも彼らはしつこいから、「あきらめて攻撃してこなくなる」ということはありませんけどね。こちらがいくら彼らに関心を払わなくても、彼らはこちらに関心を持っていろいろやってくる。これは私が最近到達した結論ですが、“ものすごい悪意”に対しては、「超然主義」は通用しません。もう自分の存在そのものが憎まれている、というところではね。自分に理由があろうとなかろうと、誰かを排除しようとするのは、“その人の存在により自分の立場が脅かされている”という恐怖心の裏返しなので、だからこそ彼らは全力でやってくるわけです。無事その人を排除したからといって、自分の価値が高まるということではないにもかかわらず、なぜそんなことに時間とエネルギーを投下するのかというと、その人がいなくなれば、相対的に自分の価値が(上がらなくても)下がることはないと信じているという、ほとんど“おめでたい思い込み”で構成されている世界がこの世にはあるということなんでしょうね。この世には別の世界もたくさん存在しているということを知っていれば、そんな狭い世界のなかで目くそ鼻くそを笑うような(excuse my language)違いを摘発糾弾することに躍起になることもないのに、と私なんかは思うのですが、「自分の所属している場所が世界のすべて」と信じている“ムラ社会”においては、よそ者(“違う価値観”を持つ人)は彼ら(“ムラ”所属住民)にとっては許しがたい悪であり、全力で排除にかかる、というのは大いなる学びでした。現状維持こそ彼らにとっては“至上の善”であり、ましてや“改善”を図るなどというのは迷惑でしかない、ということも。

もうこれは自分個人の資質の問題を越えている部分があるので、仕方ないと割り切るよりないと思うに至ったのですが、まあしかしその時間と労力を自分の向上のために使えばいいのにという思いはありますが、まあ忙しくてそんな時間はないんでしょうね・・・というか、逆によほど時間に余裕がおありでなければそんなことする暇はなさそうな気がしますが、他人との比較のなかにしか自分を認識できない方々は、永久にその無限ループのなかで進んでいかれるだけなんだろうな、と考えると、それぞれの生きざまはすべてその人の選択によって形成されているに過ぎない、ということがよくわかります。持って生まれた性質は多少あるにしても、すべては自分が選んでやってきた結果ですから、まわりがどうあろうとも、私は私が信じて大切にしている価値観に基づいて人生を送り、その生きざまでもって“お返し”する、それが“恩返し”となれば一番いい、と思っています。もちろんその評価はそれぞれのご判断、すけど。

なんか読んでくれている人を励ますようなことを、と思って書き始めたら、思わぬところから魂に火がついてしまいましたが こんなふうに、自分の魂を“着火”させてくれる人の存在というのは本当にpreciousで、やはり人は人のなかでしか生きられない、ということもまた思い知ります。

ともあれ今日から3月。春に向けて、ぐんぐんと新芽が伸びていくように冬のあいだに培ったことを美しい花として咲かせることができるようにがんばっていきましょうね 


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