ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

あの人は今 ~被災地で出会った方に思いを馳せる~

2017-03-11 13:38:45 | 日常

6年前の3月11日(金)に起きた東日本大震災。
埼玉県内で働いていた私は帰宅難民となり
一駅先のご自宅から通っている同僚のご厚意で泊めてもらい
寒い思いをすることもなく、寝る場所に困ることもなく、本当に助けられた。
同僚のお宅に行き、テレビをつけた時の衝撃は、今でもよく覚えている。
どす黒い津波が次々とビニールハウスをなぎ倒して内陸に侵入してくる映像に
その時被害者の数は千人余りと言われていたが、それどころではなくなると思った。
震災後何か月間かは、関東地方でも交通機関のマヒや計画停電があり
液状化した土地や瓦の落ちた屋根・マンションの棟をつなぐ渡り廊下の復旧など
震災の影響を感じながら過ごす期間があったが
1年も経つと、3月11日前後になるとテレビや新聞で取り上げられるほかは
一部の地域を除いて、震災のことがどんどん遠くになっているように感じた。


私は母が秋田県の出身だということもあり、東北地方は身近な場所だ。
学生の時には、いちばん仲が良かった友人は八戸市の出身だったし
その頃から八甲田・八幡平・三陸をうろつき
吾妻小舎でのご縁もあって、生まれ育った埼玉より福島に愛着を感じてもいる。
福島の震災被害をより一層深刻にしているのは、東京電力福島第一原子力発電所の事故だ。
吾妻小舎のスタッフのなかには、飯舘村に建設中のご自宅を残して避難し
お子さんたちが成長するなかで生活の場を定めなければならない苦悩を抱え
最終的には飯舘村には戻らず、避難先の地で新居を構える決意をされた方もいる。
私の友人の実家は郡山市街の高線量地域で、除染をしてもなかなか線量が下がらず
今、友人は実家を出て生活している。
吾妻山域は放射線の影響が少ない地域だったが
それでも震災後には吾妻小舎の宿泊客は激減し、経営は大打撃をうけた。
福島では街中だけでなく山間地の集落にも線量計が設置されており
震災と原発事故のことを考えずに生活することなどできないというのに
被害が浅かった地域や被害のなかった地域との現在の生活や意識の落差に愕然とする。


私は吾妻小舎の小屋番をしていた2013年の秋
定休日を利用して宮城県の被災地を訪れた。
お姑さんが入院している塩竈の病院に通うため
仮設住宅からタクシー代1200円を払ってバス停まで来ていた女性は
バスで通る途中、ご自宅のあった場所を見る度に
「ああ、ここに家があったんだなー」
と、思うと話してくれた。
ご自身は震災の日、地区のコミュニティセンターに避難して
背中まで水に浸かりながらも助かったが
たくさんの人が流されたり溺れたりして助からなかった光景を目の当たりされたという。
瑞巌寺でガイドをしている女性は、旦那さんが震災後にうつ病になってしまったそうだ。
旦那さんは津波が襲ってきた時、側にいた子供2人のうち小さい方の子供を抱いて
少し大きい子供の方を自分の脚にしがみつかせた。
「絶対手を放すんじゃないぞ」
と言って。
しかし、津波の威力は凄まじく、脚にしがみついていた子供の手が離れて
あっという間にその子は波に飲み込まれてしまったそうだ。
その後、旦那さんは脚にしがみつかせた子供を探すため、毎日避難所を訪ね歩いた。
そうして毎日探しても、その男の子を探し当てることはできなかった。
そのうち旦那さんは、その男の子がもうこの世にいないのではないかと思うようになり
脚にしがみつかせたのが悪かったのだと自分を責め
精根尽き果てて何もできなくなり、病院でうつ病と診断されたのだという。
ガイドの女性は、お孫さんという新たな命が生まれたお蔭で
やっと最近旦那さんが笑うようになったのだと話してくれた。


被災地で出会った方々や、福島にいた間ご縁のあった皆さんのことに思いを馳せる度
私はとても胸が苦しくなる。
被災地で出会った方々は、健やかにしていらっしゃるだろうか。
私にできることは限られているが、東北の良さは身に染みて知っているので
一人でも多くの方に、美しい風景と、澄んだ空気と水
大地の恵みである温泉、おいしい食べ物があることをご紹介しよう。



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