続・エヌ氏の私設法学部社会学科

無理、矛盾、不条理、不公平、牽強付会、我田引水、頽廃、犯罪、戦争。
世間とは斯くも住み難き処なりや?

憲法第11条(基本的人権)、民法第1条(私権)

2010-10-01 | 法学講座
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日本国憲法第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

民法第1条
 私権は、公共の福祉に適合しなければならない。


(注)憲法には「人権」、民法には「私権」とありますが、駄文では、同義にお考え頂いて結構です。

 人間には人権があります。この当然過ぎるほど当然のことが、当然のこととして認識されたのは、真に情けないと思いますが、やっと近代になってからです。
 ・・・いや、周りを見渡してみると、まだ皆が皆、認識していないかも知れないと、思わせられることばかりです。

 人間なら、生まれてから死ぬまで人権があります。しかし、いくら可愛がっていても、ペットには人権はありません。ペットをスーパーや飲食店内に連れて入って、平気な顔をしている大馬鹿者もいますが、こんな輩は黙殺します。

 さて、人間に人権があり、人間以外のものには人権がない・・・後者は当然として・・・

 江戸時代、一度有罪になるたびに、額に「犬」の文字を1画ずつ刺青されていく、という刑罰がありました。つまり4画目で「犬」の文字が完成し、「これ以降は人間扱いしない」という烙印になります(5度目は死罪になったという説もあり)。もちろん重大犯罪は一度で死罪や流刑になりますから、微罪であっても、4度も累犯するような者には社会復帰を認めない、という社会の意思です。

 ただし、人間扱いしないといっても、生存に関わるような人権の侵害は認められず、社会生活上の人権を制限されている、すなわち、牢屋に閉じ込めたり、遠島に流したりといった直接的な方法とは別に、社会の中に居ながら社会とは隔絶され、当然、仕事も、半ば強制労働に近いものしか与えられませんでした。

 現代でも、1度や2度の過ちなら、再教育を施し、心を入れ替えれば、社会復帰を認めてもいいでしょうが、仏の顔も3度まで、まして仏の国ではないこの社会において、累犯は、凶悪犯罪と同等の取り扱いでいいと思います。
 さらに、そもそも物を盗んだり、人を傷つけたりすることに罪悪感を持っていないなど、遵法精神はおろか、道徳心の全くない奴、社会に害毒を流すばかりの輩は、掃いて捨てるほどいます。

 このような奴等からは、生命に関わることは別として、社会に参画して利益を享受する人権は、制限ないし剥奪してもおかしくないと思います。人たるに足らぬ畜生には、畜生にふさわしい待遇を与えるべきです。

 と、ここまで言うと、「士農工商云々」を復活させるのか、と危惧する向きもおありでしょう。しかし昔の身分制度は、生まれや職業で差別していた点が、まさに冒頭述べたとおり、当然の人権を無視していました。
 私が言うのは、人間たることを自ら放棄した者に、人間たる権利を認めなくてよい、という因果応報論です。因果応報ですから、適用に何もためらう必要はありません。

 総論はこれでいいとしても、各論に踏み込むときりがありませんので、今回はこのへんで。

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6 コメント

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Unknown (たにし)
2016-02-14 04:34:51
人権は現代社会において社会継続のための必要条件なので特例をつくって剥奪するという考え方はNGですね。

『なぜ障害者の人権を守るのか?』
http://ameblo.jp/frederic-chopin/entry-11505611544.html
こちらをお読みいただくと良いと思います
人権とは (エヌ氏)
2016-02-15 21:40:57
 たにしさん、いらっしゃいませ。他記事へのコメントもありがとうございます。

 さて、人権「剥奪」はNGというコメントですが、人権の「制限」はNGではない、という理解でよろしいでしょうか?
 現に、犯罪者が刑務所へ収容されたりと、人権の「制限」は行われているわけですから、まあ、ご異論はないと思います。

 では、「剥奪」はどうでしょう。「死刑」は?生存するという、基本的人権の最たるものをも「剥奪」してしまうのが、「死刑」です。日本では採用していませんが、終身刑もこれに近いかもしれません。
 もちろん、「制限」にしろ「剥奪」にしろ、厳格な審査(裁判)によって、それが行われるべきであることは論を待ちません。

 駄文の趣旨は、他人をないがしろにする犯罪を行ったものに対しては、社会がその者をないがしろにするような権利の制限や剥奪を行ってもよいのではないか、というものです。

 それから、誤解があるといけませんので、一つ弁明を。
 リンク先の記事も参考にさせていただきましたが、私は、いわれなき差別を最も憎んでおり、たとえば障碍者の人権を無視するような人間ではありません。
 会社の中では、差別、外国人差別、女性、LGBT、その他さまざまな差別に関して、人権を守ろうと、社員を教育する立場の者で、当然、これら問題の講習会へも多く出かけ、勉強もしています。
 また、聴覚障碍者の役に立ちたいと、手話も勉強している身です。
 だから・・・と言うと口幅ったいですが、あまり意識のない一般の方々よりは、人権意識(知識)は深いつもりでおります。

 逆に、何の落ち度もない無垢な方が、いわれなき被害に遭った場合(つまり人権を侵害された場合)、人権を侵害した側には、それ相応の、人権の制限ないし剥奪があってしかるべきではないか、とも思います。
Unknown (たにし)
2016-02-17 00:42:17
エヌ氏さま。
こんばんは。丁寧な返答ありがとうございます。

まず初めに、エヌ氏さまが差別や人権侵害を正当化するような立場ではないことは日記を読んでいてよくわかります。
むしろ、人権について真剣に考えておられる姿勢を見て、僭越ながらコメントさせていただいたきました。


>人権の剥奪
これはNGかと思います。
紹介した日記でも触れられていますが、これを認めると裁判のやり直しすら成り立たなくなってしまいます。
また、人権の制限は、目的を達するために最小限でなければならない(最小性の原則)という点からも、NGでしょう。


>人権の制限
これについては、人権の制限が許されるかという一般論というより、人権の制限の仕方の話ですね。

人権は、現代において、人類の根本となる価値であるため
人権の制限は、
「他者の権利を保障する(言い換えれば社会の再生産を阻害する)」という目的で、
かつ、「合理的な根拠がある場合」に、
かつ、「あらかじめ法で厳格に定められた手続きによって」のみ、
「最小限の制限」が許されます。


因果応報というのは、客観的な根拠にはならないので、そういう意味で「特例でもって人権を制限する」という点に当てはまってNGと思います。

また、現在の社会で人権のはく奪?(死刑)が行われているからといって、それをやってもよいという根拠にはならないですね。


犯罪と刑罰と人権を考える上では、
http://ameblo.jp/frederic-chopin/entry-11434366431.html
http://ameblo.jp/frederic-chopin/entry-11343955810.html
この死刑論が参考になるかと思います。

私もこの方の死刑論をきっかけに人権と社会科学について学ぶようになりました。
リンク先を含めて読むことを前提に書かれておりますので、少々長くなってますが。。。

あえて触れませんでしたが (エヌ氏)
2016-02-17 22:52:58
 裁判のやり直しさえ成り立たない、という点は、その通りですね。敢えて言及しませんでしたが、裁判の誤謬がないという前提で、駄文を綴っておりますが、その裁判が誤りだらけであることは、再審無罪の例が数多いことからも明らかです。

 人権の制限(部分的な剥奪、とも言い換えられますが)に、たにしさんがおっしゃる条件が、厳格に適用されるべきであることは、現代の法学では常識です。
 因果応報というのも、その範囲内での話です。ある犯罪の法定刑が有期懲役なのに、それを超えて無期や死刑が適用されることは許されません。(もっとも、その法定刑が低すぎるとは、常々思っていますが)

 ついでに、死刑については、現在の法で定められている最高刑が死刑だから、それを適用することには、何ら不都合はありません。死刑制度そのものの是非は、あえて論じていません。(私自身は反対ですが)

 さて、人権の制限が最小限でなければならないという点は、まあ、その通りですが、ひとつ、選挙違反をした者が、一定期間、選挙権(被選挙権も)を停止される、すなわち、人権を制限される点については、いかがお考えでしょうか?
 私は、その考え方は間違っていないと思います。
 また、その考えを水平展開すれば、経済犯罪をした者には経済活動の制限を、そのほか、犯した犯罪「因果」にふさわしい「応報」があってしかるべきではないかとも思います。
Unknown (たにし)
2016-02-20 00:46:43
こんばんは。

人権の制限の仕方の一般論についてはコンセンサスはとれているようですね。



ただし、刑罰の目的は因果応報では定められないと思います。
これを「合理的な根拠を欠いている」に該当しているのではないか、と申し上げてるわけです。

これはさきほど貼った日記を見ていただければご理解いただけるかもしれません。(長いのでお時間があるときにでも)
*死刑論の日記については、死刑論を論じてある日記ではありますが、刑罰の原理的な部分から展開されているので、主旨には合致していると思って貼らせていただきました。
おや? (エヌ氏)
2016-02-20 15:42:04
 総論ほぼ同じ、各論若干違う、といったところでしょうか?

 さて、刑罰には、因果応報の要素が全くないのでしょうか?
 または、あってはいけないのでしょうか?
 殺人罪の判決理由を見ていると、犯行の計画性や残虐さ、被害者の被害感情、さらには被告の反省の程度、そうした、定量的には測れない部分を考慮して、量刑を決めています。
 その証拠に、刑法第199条殺人罪の法定刑は、懲役5年から死刑まで、さらに懲役刑が酌量軽減された場合は執行猶予が付くこともありますから、文字通り天と地ほどの差があり、そしてその差は、前記のとおり、殺人という事実以外の、状況によって判断される、すなわち、殺人行為の非人間性という「因果」によって、量刑という「応報」があるわけです。
 ただ、ここから拡大解釈することは、たにしさんは反対のようですね?
 私は、その点、現在の殺人罪などに対する量刑の軽さから考えて、「応報」の部分を、もっと膨らませてもいいのではないか、と考える次第です。
 司法も、その一歩として、裁判員制度を採用して、一般市民の「市民感情」を、量刑に反映させています。

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