彩水のしずくー自分と向き合う

わたしは多発性硬化症です。体の症状などに対する自分の取り組みとその結果、自分と向き合うことで生まれるもの書いて行きます。

物事の使い方

2017-10-17 16:21:37 | 日記
昨日のブログの続きです^ ^

でも、もしも、もう一回やったらさっきとは別の感覚がするのかな、
もっと怖くなるのか、降りるのが楽になるのか、変化を知りたくなった。

わたしは興味を持つと、やってみたくなる。
どうせなら、この機会を使って、ひとつ体感した結果を自分に残してみたい!
ということでまた、あの急な階段を上ってしまった…

上った後にやはり後悔した。
なんで、上ってきたんだろう
また下がらなきゃいけないじゃんと感じた

そんな気持ちで、2階の催し物を見てみた。
いろんなものを売っていた。

しばらくして、父が、ある方法で、わたしの体に合うものを探してくれた。
わたしの体の調子に合うもの、それがアクセサリー売り場にあった。
それを買ってつけてみた。
つける前と後と比べ、歩き方、歩きやすさが違った。

その後、下に降りることになった。
怖さがわたしを覆うような気がしたが、それを打ち消すように、大丈夫という思いがあった。
階段を見下ろした。
1回目とは、全然違う間隔だった。
この体なら大丈夫って思った。
さっきと同じく父に前についてもらい、いざ出発。
で、結果…
すごくスムーズに降りることができた。
まず怖さが全然なかった。
体の軸があった。
一歩一歩、丁寧に、自分の足を信じて体重を預けて行く。
体を信用してる自分がいた。

1回目は感情が体に反映されていたけど、2回目は意識と身体が一致していた。

なんだか楽しかった。
こんなに変化するんだって改めて感じた。
その辺に売っている一つのものを身につけるだけで、体に変化が起こる。
物も、そのものならではの力を持っているんだって思った。
あるものと、あるものを組み合わせたときに、お互いによって、その関係の中に生まれる変化がある。
今は、全てのものが今ある形、方向、全ての条件が揃って成り立っている。
もし今ある一つのものでも置き場が違えば、今ではない今が起きる。

今っていう時間は、全部のもののおかげで成り立ってるんだって思った。

降りてから、ものってすごいって思ったけど、なんか心に詰まるのものがあった。
じゃあ、体に合うものを外した場合、わたしの体にはまた新たな変化が出てくるのかな?
そう思った。

変えるために下に来たが、また実験してみたくなったので、上に行くことにした。
途中、体力的に大丈夫?って心配してもらった。
でも、わたしはやりたいからやってみた。
一度、疲れを感じてストップを感じたけど、やってみよう。
上りは、すごく行きやすかった。
帰りは、、
1回目よりは、全然降りやすかった。
最初と比べ物にならないくらい、スラスラ下った。
2回目のものを持った時と比べると、途中で止まったり、スピードが少し落ちていたりした。
でも、緊張感は1回目より2回目より、無くなっていた。

あるもののお陰で、身体が動かしやすくなることがある。
でも、そのものに依存せず、一歩を踏み出すことに使ったら、一度手放し、また同じことをやってみる。
そうすると、自分が自力で変わって行く。


ものに依存してしまうと、自分自シンはあまり変化をしないのかもしれない。
ものによって成り立った現実になる。
それで終わりにするよりも、自分の力で何かを成し遂げたほうが、納得感、自分の人生を歩んでいる感が大きいのではないか?

ものは自分の力ではどうにもならないときに頼るもの。
頼ってその感覚を勉強すること。
その後、自分の力のみではどうなるのか試してみるといいと思う。

そうすることで、いろんな発見があるだろう。
もし仮に、ものに頼る前に戻った感覚があったとしても、それは一つの発見。
自分の力でやってみるという内面の前身はしたことになると思うし、その発見を次にいせる。

これはものだけでなく、どんなことにも言えること。
ある経験をどう捉えて、どう使うのかは自分次第。
わたしはどんなことも自分の成長のために活用していきたいと思う。



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勇気を振り絞って、挑戦すること

2017-10-16 21:38:06 | 日記
今日は、イベントに参加した。
イベントには、父が自分の歯科医院の方針など催し物を出すため、出る機会が多い。
今回行った、イベント会場は初めて行く小さなカフェで行われた。

わたしがこのイベントで、1番困ったこと、それは階段だった。

私たちが 催し物を出すのはカフェの2階だったから、そこへ行くには階段を上らなくてはいけない。
父に言われてこの事は承知していた。
でも、手すりがあればある程度は自分で上り下りできる。
それに、父もスタッフの方も介助に入ってくれるから大丈夫だと思ってた。

しかし、
実際に階段を見てみると、、急だった。
とても段差が高く、一段の幅が狭く、階段の段数が多い。
行きたい2階が、1階にいる私から見て、とても高いビルの頂点を見ているようだった。
びっくりした。
でも、混乱しそうな自分の感情を収め、まずは行ってみようと気合を入れた。
この階段は、下から見て左側に手すりがあったので、上りは手を頼って普通に上がれた。


催し物の準備を少し手伝った。

しばらくして、お昼の時間が近づいてきた。一階に行くことになった。

階段に近づいて行った。
階段は下りの方が苦手…
下に続く長い階段が目に入りそうになると、自分が拒否反応を起こすように恐怖心が出てくる。
その恐怖で、心身が一瞬で硬直する。
恐怖心に支配される自分がいた。

父に前にいてもらい、階段の下が見えないようにした。
でも、下に落ちる可能性があるということがずっと頭にあり、離れてくれない。
下に降りなければ、帰ることもできないし、何が何でも降りなくてはならない。

途中でなかなか降りないからか、父に降りるのやめる?と提案された。
正直、降りるのは怖い。早く降りて、リラックスしたい。
でも、諦めるのは嫌だという気持ちが強かった。

降りれるかどうかは、やらなければわからない。
諦めたら、そこで終わり。
できるまで怖い気持ちと向き合ったら、何かが変わるかもしれない。

精神面が全て体に出ているように感じた。
怖いから、右半身は硬直し、力を入れると震え出す。
左も右をかばおうとして変に緊張している。

何分か我慢して、少しずつ、支える手を前に出していき、一段踏み出した。
本当に怖かった。死ぬ気で頑張った。

で、一段また一段って体が硬直しながらも降りて行った。
最後の一段を降りたとき、心に安堵感が広がった。

落ち着いて、自分の体に意識を向けた。
階段を降りるのが怖いとどうしても体がどうこうではなく、階段を降りるっていうことのみに意識がいってしまう。
わたしの額には、冷や汗がビッチョリ(~_~;)
こんな汗かいたの久しぶりーって思った。

ご飯食べた。
食べ終わってから、もう一度上に行くかという話になった。
もう一回、上に行ったら、さっきと同様また降りることになる。
降りるのもうやだよーって思っていた。
でも、もしも、もう一回やったらさっきとは別の感覚がするのかな、

ーーーーーーーーーーーー
続きは、また明日!
この後、何をして、どんな発見があったのか…
お楽しみに〜♪
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心を込めること

2017-10-15 20:44:45 | 日記
大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです。
これはマザーテレサの言葉である。

最近、自分らしさに近づいている。
その体験を2つあげようと思う。

まず一つ目は、絵を描いたことだ。
昨日、絵を描いた。
父に提案してもらったからだ。
最初それを聞いたときは、そんなことに時間使う意味ありますか?って思ったり、
描いても自分が絵が下手なのを知るだけ、意味がないし、と思い、やる気がなかった。
しかし、提案してもらったことをやらずに、決めつけるのはもったいないことである。
時間もあるし、せっかくだから描いてみようと思った。

何を描くか考えた時、ちょうど目の前にコップがあったので、まずはそれを書いてみようと思った。

最初は、本当に何をすればいいかわからず、とにかく、なんとなく見た通りに形を書いた。
どうしたら、褒めてもらえるかなとか、上手にかけるかなって考えてた。

絵は最初は、全然わからない線である。
何書いてんだろう、つまらないって思いながら、とりあえずペンを動かす。
その作業を、やり続けた。

1時間くらいした頃だろうか。
今まで、つまらないと思っていたのに、すごく絵を描くことに集中している自分がいた。
なんでかわからないけど、一生懸命書こうとする自分、一つのコップという物と向き合ってる自分がいた。
自分の中に目の前のものを受け入れるというか、一体になる感じがした。

そして、そのものを自分の見方で感じた通りに紙に表現する。
自分を表現するのだ。
徐々に線が形を表していく。
自分が見た、コップというものを自分なりの形になっていく。自分なりに物体として捉えていく。

何もない白紙から徐々に世界を作っていく。
現実にあるぼやけたものを、言葉とか絵とか音楽で表現するのが人間のできることだと思った。

一つのものと向き合う事をとにかくやり続けると、それに対する見方はもちろん、自分の観点、感性、見方など、自分自身が変化していくと感じた。
いつも、何気なく見ているものが、見方を変えると全然違う神秘的なものに見えた。
絵を描くことは、自分を表現することである。

その後、いつものようにピアノを弾いた。
ピアノを弾く前に、絵を描いて自分を表現したので、自分らしい感覚を持っていた。
自分らしい自分でピアノを弾くと、最初に出した音がいつもの音と異なっているのに気づいた。
いつもよりもすんなり体に入っていく、そんな音だった。
また、音が家全体、体全体、全てに響くのを感じた。
自分をピアノの音によって、表現する。
その音が素直に耳に入ってきて、全体に響き渡っている感覚がとても気持ちよかった。
いつもよりも優しい音で、真の自分が出ているような気分だった。真の自分と一体になって喜びが溢れ出る感覚だった。

自分を表現することは、模写であれ、ピアノであれ、文章であれ、なんであっても気持ちのいいことである。



わたしは、今現在、アトピーがひどくなっていることと、呼吸が苦しくなる症状が1日に数回出ることが続いている。

アトピーが痒いとこは、触って欲しいとこと感じた。なぜならば、撫でると落ち着くためである。
また、呼吸が苦しい時、胸を触りたくなったり叩きたくなったり、胸がムカムカしたりする。
この症状が出た時に、自分の奥(魂)を感じると安心する。
よって、苦しい症状が出るのは、胸の奥を感じて欲しいからである。
症状があるとこは、まず手で触って、感じて、さすって感じて、そのあと、精神で感じてみたらいいと思う。
たぶん、奥にある自分を知って欲しいから、内部を知って欲しいから、知りたいから、症状に出て対処を待つのだと思う。

わたしは、上記の体験を通して感じた。
人間が生まれてきて、この世で行いたいことは、自分を表現することではなかろうか?

大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心を込めたかです。
この言葉にあるように、絵を描くことから、自分が人生で出会う物事だけでなく、出来事、ひと、また、自分自身と、どれだけ真剣に向き合えるか、自分の行いにどれだけの気持ちを込めるかが重要だと思った。
じっくり観察しなければわからないもの、感じられないものがある。
また、人によって感じ方、捉え方は違う。
いかに自分が深い意味で物事を感じ発見するか、それが自分の価値観を深めていくと思った。
多くのことを行うのもいいことである。
しかし、その行いや関わりをどのような姿勢で取り組むか、それによって人間としての、また個人としての成長が決まると思った。

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選択が運命を決める

2017-10-14 19:19:41 | 日記
今日は、久しぶりにリハビリに行った。
今回のトレーニングはいつもと違うことがあった。
いつも、わたしを担当してくれていたトレーナーさんが退職されたため、別のトレーナーさんになることだった。

だから、今日のトレーニングがどういう場になるか楽しみだった。
変化があるのも悪くはない。

トレーニングはいつもと同じ雰囲気で、やりたいなーって思っていた。
いつもと同じように笑顔で入った。

新しく担当してくれるトレーナーさんとは、今までのトレーニングでも話したことはあった。
でも、触りしか話したことがなかったから、どんな人なのか、どんな話をするのか、どんなトレーニングをするのか、、、

トレーニングが始まった。
今までと同じような流れのトレーニングだった。
でも、やはり担当者が変わるとトレーニングの雰囲気も変わる。
最初に厳しめにやるからねーって脅されて(ふざけてですが)、少し驚いたがやってみると楽しかった。

前のトレーナーさんよりも少し厳しめであったが、その厳しさがわたしの体にいい感じに響いた。

トレーニングにしても何にしても、自分が対する人が変わると、自分の行動というか、自分の雰囲気、感覚が変わる。
目の前の人によって、別の自分になるんだって思った。

ある人とある人、今目の前にいる人とだから作られる空間がある。
対する人によって、変化する自分を感じるのも面白いって思った。
変化はするけど、どの自分も自分なんだって思った。
その人に合わせて気を使っている自分も、ありのままの自分を出してる自分も、全部自分なんだなって思った。

人と人の関わりは、その時、その場で作られていくもの。
その時でなくちゃ、その場でなければ今経験していることは、何も起こらないと感じた。

トレーナーさんとの話は新鮮で面白かった。
話ししていながら、ちゃんと、わたしの歩き方を確認していて、油断するとすぐに注意が入るから、気を抜けなかった。
ほどよい緊張感だった。

話題には、わたしが興味あるようなことを話していた。
今っていう時間、空間は、自分で選んでいること。
ドラえもんに出てくる、どこでもドアは、理論が通っていないという話をしてくれた。

今っていう時間は、今の自分が選んだ1つの世界なんだから、どこでもドアで過去や未来に行って、またその時今と感じていた現実に戻ることは不可能に近い。

どこでもドアで移動する前と後の今という時間は異なっているのであり、また同じ空間、環境を選ぶ確率は低い。

今っていう時間は、自分が認知している今という時間以外の今という環境もあって、人間はただ、自分がいる今を選んだだけ。

だから、自分の意識(無意識)によって選択された空間。
その選択に責任を持つか否か、

こんな話だった。
とても興味深かった。
自分の意意識によって、今の自分、他者、空間、ましてや世界情勢が成り立っているってこと。

今起こっていることは自分で選んだ現実なんだ。
そのことを自分に落とし込んでみて今を感じてみた。
もしも本当に、自分で選択した今なのだとしたら、それによって右往左往する感情も、他者のこともまずは受け入れたいと思った。

その上で、自分は次にやってくる今をどう選択するか、そして、どう捉えるか、決めるのも自分なんだ。

トレーニングをしていると意識から変わるということが身にしみてわかる。
歩こうという思いがなければ、歩けない。
これと同様、どんなことでもそうだと思う。
変わろうとしなければ、何も変わらない。
変わりたいという思いから、行動に変わって、それによって、現実も変わっていく。
意識→行動→変化

でも、それ以前に行動しないと変わらないと思っている固定観念を外すと、意識→変化になるかもしれない。

どちらにしても、人間というか、この現実は意識によって成り立っていて、意識によってどうにでも変えられるような気がした。

今言えることは、意識によって、自分の世界観は必ず変わるということだ。
自分の世界観によって、自分は今という時間を捉えているのだから、意識を変えたら、人生の色が変わる。

真っ暗に思えるある現実も、自分の捉え方一つで全てが変わるものだ。

どの人も捉え方が違うのだから、この世にいる人の分、認知世界の多様性がある。

わたしは、どういう世界を選んでいくのか。
こうやって考えると、人生を冒険しているみたいに感じる。

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見方によって全てが変わる

2017-10-13 18:06:15 | 日記
今日は、朝、いつもよりも時間に余裕があった。
だから、家の片付けと掃除をした。
先日、父から、「四つん這いをやることは、足が不自由な人にいいみたいだよ。
赤ちゃんは、四つん這いをしてから、歩けるようになるでしょ。
赤ちゃんからまたやり直すってことだね
リハビリのためにハイハイしながら、床掃除したら?」って提案があった。

これを聞いた時には、負けず嫌いな性格が出てしまい、「ハイハイなんてできるもん」って思っていた。

でも今日まで覚えていたことだし、時間もあるし、やってみなければ体にどう影響するかわからないって思い、やってみる流れとなった。

片付けをし、机を拭いて、その後に床掃除をした。
水拭きをした。
床掃除は久しぶりだった。

部屋の端に四つん這いになって、「さぁ、やるぞー」って気合い入れて始めた。
何だかわからないけど、変にやる気な自分がいた。

いつもみんなで使っている部屋。
ご飯食べたり勉強したり、この部屋で色んなことをしている。
普段は全然意識していないからか気になっていないけど、
掃除をしてみると、小さな汚れが大きく見える。
一つ一つの汚れと向き合って、落としていく。

気づいたら、夢中になって掃除をしていた。
床の汚れが、自分の嫌な部分、受け入れたくない部分とかぶった。
床を掃除しながら、自分の内面の嫌なとこ認めたくないとこと向き合っているような感覚だった。
自分の内面を観ているような感じがした。
大きな汚れ小さな汚れ、一つひとつと向き合っていく。
力を入れないと落ちない汚れ、こすり続けてやっと落ちる汚れ、、、
色んなのがあった。
自分の中にも色んなカタチ、大きさ、雰囲気の受け入れてない部分があるような気がした。
でも、自分で、嫌なとこ、治したいと思っているとこを感じ、向き合っていくと、その嫌な感情がなくなっていく。

掃除を一通り終えて、辺りを見回した。
ちゃんと拭いたから、すごい綺麗になっていると思って全体を見た。
そうしたら、
小さなホコリがポツポツ

さっき拭いたのにー
きちんと拭いたけど、拭き終わった頃にはもう、新たなホコリが散らばっていたのだ。
ショックだった…

ちょっと悲しかったけど、自分の内面もそんなことがあるような気がした。
自分と向き合うと、一時的に心の中が透き通る。
でも、しばらく経つと、また新たな好きではないこと、受け入れられないことが出てくる。
それによって、自分の感情が振り回されてしまう。

でも、それはそれで受け入れて、また1から見つめ直せばいい。
そうやって、どんな物事においても自分の内面においても、何度もなんども丁寧に向き合っていく。
そして、それを自分なりに楽しむ。
それを続けることで、見えてくるものがあると感じた。

掃除して綺麗にするなどは、結果に見えて実は過程である。
自分に起こるひとつ一つの物事から、深く感じることもできるし、過程となる段階と捉える
このようにたくさんの視点から、1つのことを観ていくことで、「自分」「今」が広がっていく。
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