音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

クラシック音楽の伝統を受け継ぐ真の音楽芸術家を目指して活動しています

6月24日(金)のつぶやき

2016年06月25日 | ◆一言◆
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6月23日(木)のつぶやき

2016年06月24日 | ◆一言◆
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6月22日(水)のつぶやき

2016年06月23日 | ◆一言◆
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6月21日(火)のつぶやき

2016年06月22日 | ◆一言◆
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ベートーヴェン《チェロソナタ第4番op.102-1》を楽譜を見ながら勉強していたら

2016年06月19日 | ベートーヴェン Beethoven
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ドビュッシー《版画》を楽譜を見ながら練習していたら

2016年06月18日 | ドビュッシー Claude Debussy
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「軽妙」が「軽率」になってしまってたら・・・

2016年06月14日 | ◆一言◆
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この筋肉は使うべきではない、なぞと決めつけてはならないのかも・・・神は不要なものは創らず!?

2016年06月13日 | ◆一言◆

夜なべ練習中・・・ここ最近では、自分が手首を上手に使えておらず、ゆえに十年以上も指に違和感を抱えたままピアノを弾いていた・・・その違和感解消を目指し奮闘!?しているところです。
今夜は、手首だけではなく、最近の脱力研究で不要と考えていた「指の伸筋」も指の動きのために多少必要かもと

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反省中・・・安易に、この筋肉は使うべきではない、なぞと決めつけてはならないのかもですね・・・神は不要なものは創らず!?

適宜、使う、ということ

いやはや、言うは易く行うは難し!!!

一生、道を進もう


リハビリ中!?の身の上でありながら、以前から決まっていた本番を、ここ最近で2つこなさねばならす・・・人前だと、今まで以上の困難を感じもしました・・・練習でできても、本番で出来ない・・・よくあるあるの話、です。
焦らず、よい動作を身に付けてゆきたく思います(←今は冷静!?苦笑)


手首の辺りを使うは、親指の移動(くぐり、またぎの動作)、それに加え、次ポジションへ移動しようとする要となる!?2指を的確な所へ運ぶのに、伸筋を使うとよい!?
今宵の発見・・・メモしておきたく


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6月11日(土)のつぶやき

2016年06月12日 | ◆一言◆

詩であれ、弁論であれ、どれほど輝かしい色彩で描かれていようとも、やはり、息抜きのできる部分がなければ、抑制された部分がなければ、多様性がなければ、それが与える喜びは長続きしない。(クラッスス『弁論家について』第3巻100)

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人は正しい考えをもっていても、その考えを洗練された文体で表現できないということはありうる。(『トゥスクルム荘対談』第1巻6)

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残酷なことに有益なことはない。なぜなら、われわれの導き手とせねばならない人間の本性に対してもっとも敵対するのが残酷さであるからである。(『義務について』第3巻46-47)

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心を喜ばせ、心労を休めることを求めているとしよう。それなら、哲学者の熱意に匹敵しうるものなどありえようか。彼らは善き人生、幸福な人生をめざし、これに有効なものをつねに探し求めているのだから。(『義務について』第2巻6)

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技術というものは用いなくとも、知識そのものによって保持することができるが、徳というものはその活用にかかっている。そしてその最大の活用とは国の指導であり、また、人々が片隅で声高に説いていること自体を、口先ではなく、実力によって達成することである。(『国家について』1.2)

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(人間の共同体と社会に関して自然の定める)第一の原理は、あまねく人類全体で構成する社会に認められるものである。その絆は理性と原語であり、これらは教育、学習、意思伝達、議論、判断などを通じて人間同士を融和させ、自然な社会的結合を作り出す。(『義務について』第1巻50)

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昔の書き物を繙き、熱心にまた大いに味読反芻するならば、現代の慣用語を用いるにしても、選び抜かれた言葉を用いる能力を用いる能力が身につくはずである。(クラッスス『弁論家について』第3巻39)

Gen Segawa 瀬川玄さんがリツイート | 3 RT

口演の効果を最大限に高め、口演を成功に導くのに最大の役割を果たすのは、疑いもなく、声であってわれわれは、まず声に恵まれることを願うべきであり、次には、与えられたその声がどのようなものであれ、それを保ち続けられるよう配慮しなければならない。(クラッスス『弁論家について』3.224)

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互いに批判することなしには議論することは不可能であり、他方で怒りや強情にとらわれていては正しく議論することができない。(トルクワートゥス『善と悪の究極について』第1巻28)

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哲学の究極の目的は、いかにして幸福に生きるかということに尽き、数多くの人間がその一事を追い求めてこの研究に携わってきた。(キケロ『善と悪の究極について』第2巻86)

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好意をつかむ最大のものは善い行為であるが、善い行為をなす意志だけでも心は好意へと動く。(『義務について』第2巻32)

Gen Segawa 瀬川玄さんがリツイート | 2 RT

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良い動作を「体に覚え込ませる」。クラシック音楽における「Don't think, feel」は!?

2016年06月11日 | ◆一言◆

体の悪い癖を直すということ、あるいは純粋に、より良い動作を「体に覚え込ませる」ということ・・・「体に覚え込ませる」ということ!?、これ、本当に、ただの言葉ではない、大事と思いました。
闇雲に覚え込ませていては、何を覚えるか分からず危険大!?正しく良いものを覚え込ませられたら・・・


人は、正しさを追い求めようとしている際でも、そこに到達しないことや、道を外れてしまうことは、少なからずあるよう・・・
でも、諦めず、一生!!求め続ける心構え・気概は、価値あるものと思います!!
求める気持ちだけでなく、事実に照らし合わせて、手応えを掴んでゆきたいものです


・・・クラシック音楽の演奏において、某映画のあの有名なセリフ「Don't think, feel」は・・・どこまで通用するのだろうか!?・・・ふと、疑問に思いました。
色々と考えてこその表現というものもあるのでは!?と。考え過ぎで音楽が滞ってはいけないですが・・・はてさて


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ジストニア解消にむけて卓球を。体の使うべき部分を見定める

2016年06月10日 | ◆一言◆

相変わらず、ジストニア解消のためのリハビリ!?中・・・今日は卓球のラケットを持ち、発症以来うまく出来なかったフォアハンドに挑戦・・・すると、ピアノ演奏における注意点と同じ箇所に気をつけると、楽にラケットを降ることが出来て嬉しかった!!!
私の場合、結局は「手首」がポイントのよう


数日前から同じようなツイートを重複してしまいますが・・・でも大事な記念に残しておきたく。
ジストニアの症状でラケットがうまく振れない、結局は「使うべき体の場所(筋肉)を使えていない」ことで、他の場所では対処できず、違和感を発症し、動作がうまく出来ない、そんな原因のように思います


ジストニア解消の方法が、違和感を感じる患部を直接治そうとするのではなく、その周辺で、サボっている体の部分はないだろうか!?事実に沿ってよくよく見定めることで、使うべき部分を使い、そして違和感が無くなれば!!!・・・
多くの人々の症状改善のヒントとなれればと願い、ツイートします


体の使うべき部分を見定める・・・

冷静沈着な行為と考察・・・

成功させるのは簡単ではないかも・・・

でも、やってみる価値、大いにあり!?


手首を適宜使えることで、2指が硬直しないことを確認・認識してゆくことがリハビリ


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ピアノ演奏は「打鍵」ではなく「押鍵」!?

2016年06月09日 | ◆一言◆

ピアノ演奏において、打鍵ではなく「押鍵」となっているとき、ピアノという楽器は、効率よく無駄なく理想的なよい音が出る、と言ってよいのではないだろうか?、と、ふと考え言葉をまとめたくなりました。
押す、すなわち動作の前段階において、「指先は鍵盤を触っている」ことがポイントです。

1 件 リツイートされました

「押す」という動作は、動かす対象をあらかじめ触っていないと出来ないことのように思えました。
巨大な重いものを押すことを想像すると、予め触っておいて「せ~の~」と押しますよね?叩いたり打って押すというのは・・・しっくりこない。
打鍵ではなく、造語ですが「押鍵」、と、考えた次第です


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ギロック作曲《叙情小曲集》より《15場「セレナーデ」》にみるドビュッシーの影響

2016年06月08日 | ◆一言◆


ギロック作曲《叙情小曲集》より《15場「セレナーデ」》を初見。
Des-Dur変ニ長調といえば・・・ドビュッシー《月の光》、そしてこれはセレナーデ(愛を歌う)。この曲を機に、印象派ではない本当のドビュッシー象徴派を会得できるかも!? pic.twitter.com/87f1jViDuq








名曲ドビュッシー《月の光》は、情景描写の印象派的な音楽では全く無い(断定)。
その証は、曲名「月の光」は、象徴派詩人ヴェルレーヌの詩集『艶かなる宴』の一遍より採られているという事実。
すなわち恋や愛に関する音楽!!

ドビュッシーの感性は印象派では無い・・・これが事実だそう・・・


2 件 リツイートされました






ギロック作《叙情小曲集15番「セレナーデ」》は、きっとドビュッシー《月の光》を意識して創った作品だと信じます!
するとギロック氏は、ドビュッシーが印象派ではないことを理解していたことになる!?!?







・・・私は、ドビュッシーが印象派では無いことを知ったのは、つい数年前のドビュッシー生誕150年の時・・・
このことを知ってからというもの、「ドビュッシーが印象派ではない」ことを知っているかもしれない人を見かけると、なんだか興味をもってしまうようになりました・・・








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《からたちの花》・・・2つの楽譜の違いに戸惑う・・・

2016年06月08日 | ◆一言◆

《からたちの花》・・・同じ曲のはずなのに、二つ比べると、どうしてこうも違うのだろう!?
どちらが本物なのか・・・今のところ私には判断がつかず、無念です・・・
楽譜の記載が、いったい誰の手によるものなのか、本当に大事な情報です pic.twitter.com/toSz5TIoXc


「しろい しろい はな」
「からたちのとげ」
・・・二つの楽譜で、抑揚がだいぶ違う・・・
困りました・・・ pic.twitter.com/UjxIgibu5V


《からたちの花》の楽譜2つ比較・・・軍配は、下の方にあがると今は判断しました。上の楽譜では、「いつもいつも」←最後のピアノ伴奏の音に、首を傾げたくなる不要な不協和音が書かれており・・・よって信頼が欠け、もう一方の楽譜を選択しようかと pic.twitter.com/wpqy5dyhed

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二つの楽譜を見比べ、上の方が記載指示が多く、下はわりとシンプルという傾向が見てとれます。上の楽譜に、安易なミスプリらしきものがあることで、この楽譜に対する信頼が欠け、よって多すぎる記載は、作者本人ではないどこかの誰かが勝手に付け加えたものと思い始めました・・・これを改竄と言う!?


推理して批判してしまいましたが、これ間違いだったら恥ずかしいです・・・(自爆)
そうでないことを願います(焦)


凡ミスある楽譜が「No copy」だなんて・・・笑止!!?ぷんぷん・・・(怒) pic.twitter.com/1k66utgz0Z


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ギロック作曲《叙情小曲集》に「ドイツ式ペダリング」は通用しない!?

2016年06月08日 | ◆一言◆

明後日はクラシック音楽道場、ギロック作曲《叙情小曲集》を取り扱う予定で、夜なべ中・・・簡単!?とも言える小曲だからこそ、細部に渡って、その音楽性をとことん追求出来る貴重な機会と思われ、当日どうなるやら不安はありますが・・・がんばり中 pic.twitter.com/LYWAvZYlwv

2 件 リツイートされました

ghostly・・・って・・・(苦笑)

・・・出るんですか!? pic.twitter.com/wKRwCBHVJr


明日のクラシック音楽道場に向けてギロック《叙情小曲集》を勉強中・・・
ここしばらく準備しながら、ギロックが、自分が培ってきたドイツ流ピアノ演奏方が通じない!?ような感触もあり、ちょっと戸惑っていましたが・・・これはこれであり!?と、別感覚で向かい合うとよいのかな、と思えてきたかも


なんでもかんでもドイツ流を当てはめてはいけませんよね(大笑)
ギロックの作曲に、まさに作者自身が認めているよう、ロマン派のピアノ演奏のスタイルが適用されていることを認識し始めました。これ特にペダルの使用法について。
ロマン派的ペダルを修得できるよう、工夫が凝らされているのかも


私が悩ましいのは、ロマン派音楽と一言で言っても、ドイツにおけるロマン派音楽の源流は、やはり多大にその前の時代の影響が色濃く残っているように思われ、ペダルを必要以上に使わないことで、まじめなドイツらしい(?)音楽の雰囲気が出る方法があり、ロマン派的沢山のペダルとの使い分けに悩みます


ドイツ鍵盤音楽は指で勝負!?

なぞと考えている
今日この頃なのです。

もう一言付け加えるならば
「ペダルに頼らず指で」ということ


ギロックの音楽には、先の言葉(ドイツ流なんたら)は、あまり通用しないのかも?
もちろん、それでよいのです。
それぞれの流儀があってしかるべしでしょう


ギロック《叙情小曲集》より《3番「十月の朝」》
私はしばらく以前に、ペダル指示を消して、音価を忠実に成功させる演奏方を試みました(←ドイツ式?)。しかしこのペダル指示は作曲者本人のもののよう!!(ロマン派式?)
比べると面白いかも pic.twitter.com/3R1WxDkrxu


ドイツ・ロマン派と、そうでないロマン派(?)

(あまりにざっくりと分けすぎですが・・・)
今の私の分かる範囲で、ロマン派とはいえ、一括りにせず、地域性・国民性を考慮に入れて、それに的確なペダリング・音楽をやるといいのかな、と、考えました


・・・「ロマン派のペダリング」と先程から呟いていますが、これ、今日ピアノを弾く人々にとっては当たり前なペダリングとして定着しているもの、のようです。
私はドイツ音楽を勉強するに当たり、一度この常識を封印した・・・すると、当たり前のことが当たり前でなく見えているようで・・・いやはや


当たり前・常識として定着しているものを、懐疑的に検証し、そしてその正当性が認められればそこに帰り、あるいはそこに帰らなかったり・・・

これ弁証法?
テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ


アメリカの素敵な作曲家ギロックの音楽を、ドイツっぽく弾くのはやめます(笑)その方がよさそう


・・・なんだか最近「ドイツ、ドイツ」と連呼してしまっていますが、ドイツかぶれ・至上主義者!?なんかにはなりたくなく(苦笑)、しかし、ドイツの特徴、質の高さ、優秀さを認めないわけにはいかないようで、クラシック音楽をやっていて、ここは強く意識されてしまうもののようで・・・


ドイツの弱点、イタリア・フランスなどの素敵なラテン系の感性・センスは!!・・・持ち合わせていないようで(苦笑)


しかし、フランスものドビュッシーを演奏する場合でも、場所によってはペダルを使いすぎない方が本物(?)に近付ける!?と思うことが少なからずあります・・・20世紀前半の希少な録音を聴くと、そのあっさりした演奏に度肝を抜かれます!・・・その感性、一考に値する問題なのかもしれない!?


「今日の多くのピアノ演奏は、あまりに無意味にペダルを多く使いすぎている!!」と、苦言を呈していた先生がいたことが、ふと思い出されました・・・


私の師匠、クラウス・シルデ先生は、生徒がベートーヴェンを弾いている際、そのペダリングが少なめで良く弾けている時に、とても満足そうにされていたことも思い出されます。
もちろん、使うべきペダルはしっかり長く使わないと、先生は指摘し怒りましたが(笑)


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