デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



20世紀を代表する二大小説とは、一般?にM・プルーストの『失われた時を求めて』とJ・ジョイスの『ユリシーズ』とされているが、それらに引けをとらない作品を残した小説家にトーマス・マンがいる。マンといえば『ヴェニスに死す』『トニオ・グレーゲル』で有名だが、長編の『ブデンブローク家の人々』や『魔の山』や『ファウストゥス博士』でも名高い。そのマンの作品の一つで、先日触れた『ヨゼフとその兄弟たち』を今日読了した。
この作品は旧約聖書の「創世記」を肉付けしたもので、「創世記」の分量でいえば大体第25章から第50章がそれにあたる。先祖代々、神の祝福を受けた人間とその息子たちが織り成す物語で、イスラエルの長ヤコブとその十二人の息子たちの話だ。
聖書の記述そのものは、後世の人間が編纂し、ある程度書いた本人たちとって都合よく解釈され、かつ大雑把に記述している。そのおかげで、後世の人間はおろか現代の我々のような人間も誰だって「創世記」という物語を知ることはできるが、聖書だけではその物語の現場に居合わせることは出来ない。
しかし、『ヨゼフとその兄弟たち』は「創世記」の英雄的な記述を検討し、どの登場人物も贔屓目に描かれることはない。どちらかというと聖書の人物たちを人間として等身大に描いてあって、まるで物語の現場に居合わせているような気持ちになる。なぜゆえに「創世記」で描かれている血生臭いエピソードが出来上がったのか、ときに聖書の記述の順序までも入れ替え差し替えて解釈し、より説得力のある真実を暴き出そうという真摯な姿勢が強く感じられるような作風になっているのである。
だからこれは偉そうに高いところから見下ろしたような聖書の物語ではなく、きわめて人間臭いユーモアが散りばめられているような作品で、正直、人間って今も昔もやっていることは、大して変わらないんだなぁとニヤニヤしながら読めるような作品だった。
そして何より、昔から何度も伝承として語り継がれるドラマには、一定の法則があるように、漠然とではあるが感じた。それは一言で言ってしまうと「無意識」といっていいのかもしれない。実際、マン自身が『ヨゼフとその兄弟たち』を人間の無意識と神話・歴史との関係を明らかにしようという意図でもって書いているように思われた。だからすごく重厚な作品だと思えたし、実際「過去という泉は深い」のだ。人間たちが織り成すドラマを検討しようとすれば、無限の時間が必要になるが、さりとて歴史の文献が書かれたということは、そこに人間臭い営みがあってこそ書かれるということなのだ。(とわかったような風に書いておこっと。。。)
ちなみに今年はマンの没後50年の年にあたるのだ。そんな年に『ヨゼフとその兄弟たち』を、なんとか読み終えることができたとは、けっこう幸せなことかもしれない。
そして、訓練のほうの勉強の追い込みの拍車がかかる前に読んでおいてよかった。(笑)

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