デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(山内義雄訳)の分量は、白水Uブックスの分で全13巻である。
作品は昔の世界文学全集が書棚にありましたという世代の人々が「昔の上下段の分で全五冊のチボーも書棚にあった」という類という感じで、読書好きの親がいる家庭にはなじみぶかい作品であるかもしれない。同時に、この手の作品は、かつては読もうとしたものの最後まで読み通したという人が案外多くないといったような典型作品でもあろう。

私は作品を2月から読み始め、弊記事を書いている時点で第7巻「父の死」まで読み終えた。分量的にはこれで半分くらいである。正直、なぜこの作品をずっと放っておいてしまっていたのか自分が残念でならない。この作品は大長編ではあるが、20世紀前半に流行った意識の流れ系のようなものではなく、レフ・トルストイの『戦争と平和』のような19世紀の手法で書かれていて非常に読みやすい。のみならず、作品のテーマの一つに谷崎潤一郎の『細雪』のような門地や家庭教育をめぐる「家」があることも、『チボー家の人々』にどことなく共感し、非常に身近に感じさせ読者にページを繰らせる理由として挙げられるだろう。
従順な生き方を実践し医者としてベストを尽くし周囲から尊敬されているチボー家の息子たちで主人公の一人であるアントワーヌも「若先生」ならではのどこか井の中の蛙状態で、いい歳になってから初めて旅らしい旅に出るときの甘美な不安を覚える心境の描写など、すごくリアルで心の琴線に触れるし、アントワーヌの弟であるジャックの社会的しがらみと旨く付き合うことの出来ない繊細さと精神的な崇高さと度が過ぎる潔癖さと精神の休まることを知らない心の持ち主が身近な女性や憧れを抱いた人物への愛情からの逃避、その自分なりの言訳を芸術に昇華する感情の動きは「このような生き方しかできない人っているなぁ」と思ってしまうほどだ。
さらに兄弟の間だけでなく、チボー家と運命的なかかわりをもつフォンタナン家の人々との繊細な感情のやり取りや会話の間、表情やリアクションの細部までが、真に迫って生々しい描写も読みどころだ。ちなみに、チボー家はカトリックで、フォンタナン家はプロテスタントであり、各々の教派の価値観による径庭が両家の人々の交流の気持ちや関係に影を落とす。私は20世紀前半までの作品で、教派の違いが家々の交流に影響を与えることを真っ向から描いた作品に初めて出会った気がするのだが、いい意味で宗教的なしがらみの緩い今の日本において同じキリスト教でも教派の違いということの難しさを考えさせてくれる小説としても『チボー家の人々』は非常に優れているのではないかと思う。
これらの他にも作品に現れる重要なテーマがあるのだが、自分の中で整理できたらまた書きたい。

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