Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

企業活動という恥の労働

2008-01-25 | 雑感
背任横領のスキャンダルで揺れたジーメンスの株主総会が開かれた。本社小株主でもないので興味はないが、新聞の文化欄は企業文化について語っている。

端的に言えば、収益を求めるのが会社役員の任務であるが、こうしたスキャンダルは、たとえ市場での競争を勝ち抜くためとはいっても最終的には企業の信用を落とすことになって、企業の収益に結びつかないというのである。

ジーメンスのような伝統的な大会社において、その企業哲学とは裏腹に、多くの分野においては過当競争に切磋しており、マイクロソフトのような寡占に近い商売は出来ないという。

結局、対抗馬から抜きん出て契約をとるためには、賄賂をばらまくという形態になったとしている。その賄賂も1999年以前は必要経費として税制上落とされたのだが、そうした税制がなくなり、十三億ユーロの使途不明金に対し、結局一億七千九百万ユーロの追徴税を含む罰金など合わせて十五億ユーロの支出となったとされる。

そもそもこうした巨大組織においては、一部幹部やCEOが個人的に判断を下せる訳ではなく、労働組合を巻き込んでの不祥事となったのである。

そのような状況を見て、先日のケーラー大統領のエリートへの期待ではないが、如何に巨大企業が形而上の神を擁いていようが、こうした不正行為が最終的にはその企業行為の目的に背くことを各々が自覚しなければいけないと語っている。

国際的な企業において、脱税行為を含む裏金作りやマネーラウンダリングは常識であり、そこから多額の賄賂が支払われている構造があまりにも無感覚な違法行為となって居ることを指している。

それをして、生きるための会社員の仕事は、BLOG「田村伊知朗政治学研究室」で語られた「労働は恥?-ニートの原初風景」における「恥」と、定まった目標の追求である自動化された企業活動として、変わらないのではなかろうか?

実業界での労働がエリートとは関係ない「恥の労働」化しているのは、昨日ダヴォースを訪れた投資家ソロースが本末転倒に語った「市場原理主義の問題」でしかないのだろう。更に、そうした痴呆化した実業界を正しく導くことが出来る政治や政治家が存在しないかぎり、もしくは本物のエリートが存在しないかぎり、世界は巧く機能しないことは当然なのである。

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