Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

九月の四つの最後の響き

2016-09-23 | 
火曜日の晩はミュンヘンからの中継に耳を傾け、そして眼をやった。私にとってはラディオ放送とヴィデオストリーミングの同時中継は初めての体験だった。いつかヴィーンのノイヤースコンツェルトでTVとの同時中継のタイムラグが話題になった。同じように覚悟していた。なによりもラディオを高音質で録音したいと思っていたので、画像は二の次だった。装備的に同時録画・録音は困難なので、決して交換サイトでは見つからないラディオ録音に集中する。それもどうしても聞きたかったリヒャルト・シュトラウス作曲「最後の四つの歌」が狙いである。これで無理して欧州ツアー最終日のアルテオパーに駆け付ける手間も時間も費用も省けた。

先ず驚いたのがど迫力の動画だった。4Kを使っているぐらいの肌の形状が掴めるような大写しが続いて、普段はピットで隠れている楽員さんを気の毒に思うほどだった ― 永久保存のアーカイヴ化する予定なのだろう。そのアングルはあまり音楽的な必然性があるかのようなズームはしておらず、ある意味では無関係、ある意味では邪魔にならないかもしれない ― 先日のベルリンからの中継のそれが楽譜に沿ってと言いながら、なぜか若いブロンド女性にズームインしていたので、楽譜のどこにそんなことが書いてあるのかと再三溢したかったのだ。なるほど座付管弦楽団には前の方にも若い奏者の顔が目立つとして話題になっていたのは事実である。

指揮者も大写しになって、先日の宣伝映像の続きのような殆どカラヤン映像のような英雄的なアングルもあって、恐らく同じ監督の映像だったのだろう。不自然さもあったが、「ロンターノ」の静けさやトレモロの美しさのようなものが綺麗に捉えられていた。三つの演奏会を比較対照すると、流石に劇場の音が混ざりあう響きの中での、乾燥したボンとはまた異なる美しい柔らかな響きだった。そしてラディオの響きも、とても細かな弓の当たる音なども捉えていて、オペラ「南極」のあの響きに匹敵する精妙さだ。

さて、お目当てのリヒャルト・シュトラウス作曲「最後の四つの歌」である。最も良い高音質条件で録音したいので、ノートブックから響くオンエアー視聴では、精妙なことは分かっても、充分には確認は出来なかった、そして画像などを見ていると些か歌が明晰過ぎるようにも感じられた。そして、リフェレンス録音のジョージ・セル指揮シュヴァルツコップのものと、フォン・カラヤン指揮グンドラ・ヤノヴォッツのLPを比較試聴してみる。前者は録音が悪いのか、客演しているベルリンの放送管弦楽団が悪いのか、とてもリズムも鈍く、なるほどこの指揮者の持ち味である楽譜のシステムが縦にきっちりと浮かび上がるような合わせ方は聞こえるのだが、クリーヴランドでの磨き抜かれたサウンドなどとは比較できない演奏である。この分野では第一人者のシュヴァルツコップの歌は、音符から音符への所謂音間の扱いをまるで装飾音のように囀っている。一方フィルハーモニカ―のそれはカラヤンサウンド以外の何ものでもないが、それはそれで当時は納得させられていたものであり、たとえ音楽的な内容が無いといわれるシュトラウスの曲においても、あまりにも厚化粧の上塗りのようなものでデリカシーに欠け、十八番であった楽劇「薔薇の騎士」のエンターティメントへとどっぷりと浸かっている ― これを指揮者ロートは風呂場の鼻歌と称した。それに合わせたのかどうか、先日ダムロウが語っていたように「それならばヴォカリーズで歌えばよい」と言う程度の歌しか聞かれない。ヤノヴィッツは1970年代ぐらいには一世を風靡したソプラノ歌手で、カラヤンとの共演も度重なるが、双方ともここでは惨憺たる結果となっている。余談だが、今回のツアーも昔通りのレコード会社だけでなく業界の力が背後に強ければ、人気プリマドンナであるミュンヘンのアンニャ・ハルテロスが同行したのだろうが、なるほど、だから余計にダムロウが語るように、今回のオファーは「受け入れるしかないまたとないプレゼント」となったのだろう。

さて、その歌唱は、歌手本人が録音で馴染みのあるシュヴァルツコップとルチア・ポップの歌唱を例にそれを歌えるだけの含蓄の有無を怪訝していたが、それらとは結果は異なる。シュヴァルツコップがマスターコースなどで教える声の発声に関してはなるほどと思わせ、声の質に関してはポップのコロラテューラにも共通するそれらが活きているとは思うが、音符の読み方が大分異なるのだ。それ以上に、ここでは評論家の誰かが表現したように織物の糸が声と共に一本一本織られていくような糸織のように管弦楽団と声が一体化して多彩な音色を織りなしている。

それと同時に、これは歌唱にも深く係わっているのだが、いつものように音符が明白に楽譜通りにハッキリと発音されていて、そこにリズムの確かさがあるので、決して音楽が弛緩することなくゆったりとした時を刻んでいる。雲雀がGGと囀るEsGesEFGGの夕焼けが美しい。ハイデルベルクの暗い谷を雲雀が飛翔する。またある評論家が書くように、この曲の伴奏を綺麗により美しく誘惑的に響かす指揮者の同僚は幾らでもいるだろう ― 作曲家は歌手のフラグスタートに書き添えた、但し超一流の指揮者と歌えと。しかしこれだけ正確に精妙な響きは他にはない。YOUTUBEを調べてみると、セルとシュヴァルツコップは名門コンセルトヘボーでも同様に演奏会を行っているようで美しい録音があるが、やはりリズムが鈍い。そしてシュヴァルツコップの歌唱技術は別にして、音価の扱い方やその進行には疑問が湧いたのも事実である。今回調べてみて知ったのだが、初演はフラグスタートとフルトヴェングラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団だったようで、どうして、ヴァルター・レッグによる制作録音どころか、真面な音質の録音が残っていないのだろう?

チャイコフスキーの交響曲に関しては、ボンの強い印象があるので、成果には疑心暗鬼であったが、楽譜を見乍ら再生すると、あり得る音響空間の違いの相違と同時に、その明白さに新たな驚くべき細部の洗練さが確認された。対・内旋律の活かし方なども全体の構成の、音響の中で綺麗に嵌め込まれていて、なるほど指揮者が示唆するように殆どブルックナーばりの管の連符の咆哮があり、交響的な充実には目を開かされる想いがする。記憶を頼りに比較すると、残響のデットなボンのベートーヴェンハレではよりテムポの俊敏さが感じられたが、ミュンヘンの劇場ではより精妙な響きが聞こえた。

それにしても、管弦楽団としての鳴りは嘗てのカルロス・クライバーが指揮していた時の積極性を超えており、またリヒャルト・シュトラウスの曲においての響きはたとえベルリンのフィルハーモニカ―が将来弾いたとしてもこれほどの深い響きをキリル・ペトレンコの指揮が引き出せるかどうかは分からない、それほどの響きだった ― これに関して歌手は、歌に敏感に反応できるミュンヘンの座付管弦楽団は格別としている。残念ながら生放送とは異なって音質は圧縮されているが、同夜の演奏会の録音が一月ほど繰り返し聞けるようになっている。さて、その音質でどこまでこの音楽会を体験できるだろうか?



参照:
ドイツ的に耳をそばたてる 2016-09-18 | 音
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
眠りに就くとき 2006-08-07 | 女
冬の夕焼けは珍しいか? 2005-01-12 | 文学・思想
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