Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

シャコンヌ主題の表徴

2017-10-13 | 
承前)ブラームスの交響曲4番で最も耳についたのは三楽章アレグロジョコーソ楽章のコーダでの並行短調つまりイ短調とハ短調音階に和音連結されるところであった。これは展開部でのffz‐pの和音連結の対比として響くのだが、ここではffの後にsempreと書かれているだけなのだ。これが通常はイケイケのアクセントとして響くのであるが、つまり強弱記号が無い四回の連結はffで演奏されるのが常のようだ。しかし今回はハ短調和音がその楽器編成と音高に見合った抑えられた感じで響いた。その真意は改めて考えるとして、同じように演奏している録音は殆んど見つからず勿論フルトヴェングラー指揮も通常通りだ。そこでYOUTUBEで見当をつけて探して聴くとあった。やはりチェリビダッケ指揮ミュンヒナーフィルハーモニカ―の演奏だった ― オリジナル楽器楽団をガ―ディナーが指揮した演奏も同じように響いたように思う。
Brahms - Symphonie N° 4 (Celibidache) cf.34m10s


しかしそれよりも何よりも音楽的にその場で感心したのは四楽章のシャコンヌ主題が再現部の26変奏で弾かれるところで、ここはあっと思った。通常の演奏では、ホルンに続いてヴァイオリンの三連符の波の中でオーボエに引かれるような感じで、その音高からして浮ついてしまうのだが、楽譜を見ると確かにオーボエはpになっていて、弦と同じように松葉のクレシェンドになっている。恐らくここはオーボエにとっては強起なのでどうしても出てしまうのだろうか。それに引き換え低弦部はしっかり出ないのが通常だ。しかしこれが効いていると、「シャコンヌ感」と「ソナタ形式感」がぐっと実感されて、その後のコーダでのヴァイオリンでの提示に影響するのは当然だ。天晴と言うしかなく、前記チェリビダッケでも野放図になっているところで、如何に巨匠と呼ばれる殆んど全ての指揮者が楽団の前で勢いと権威で仕事をしていて真面な楽譜読解力が欠けているかが明らかになって驚愕する。勿論パート譜を眺めて仕事をしている楽団員は何かをしようとしても全体での音の鳴りの中で自らの楽譜を音にするしか致し方ないのだから勢いが歴史的な演奏実践となってしまうのだろう。
Brahms - Symphony n°4 - Berlin / Furtwängler Wiesbaden 1949 cf.41m06s

Leonard Bernstein, Boston SO Brahms Symphony No. 4 cf.39m24s

Evgeny Mravinsky - Brahms, Symphony No.4 - 1973 cf.37m30s

Carlos Kleiber - Brahms Symphony No.4 (4th mov,) cf.7m35s


その他一楽章から二楽章など動機のアーティキュレーションの正確さが要求されることで初めてブラームスの創作が音化されるのだが、やろうとしていることははっきりしていながらも流石に国立管弦楽団の優秀さをしてもとっても無理がある。例えば早い連符での強拍弱拍へのスラーなどはベルリンの樫本氏にお願いしないと無理ではないか。更に、折から投稿された日本の毎日新聞に「バイエルン州立管こそペトレンコのベストパートナーではないかと」などと頓珍漢なことが書いてあり、またこの座付き管弦楽団が「ヴィーンやドレスデン、ベルリンの座付きと同等の管弦楽団を目指す」と報じられているとなると、これはどうしても厳しい目で(耳で)批評しなければならない ― 兎に角、繰り返すが音楽著述を糊口の凌ぎとするような者は、少なくとも自分が感じた印象が、何か科学的に根拠があるのかどうかを ― 音楽の場合ならば楽譜にあたって ―、若しくは先ずは自らの置かれている環境を分析して、最低自問自答してみることはジャーナリズムの原点ではなかろうか。

後述する「子供の不思議な角笛」で聴かせた恐らくヴィーンなどでは到底不可能な次元でのアンサムブルや音楽を先ずは差し置くとして、例えば管楽器のその音色などは如何にそのホームグランドの劇場のコンサート会場としての音響を差し引いてもやはりあれでは駄目だ - 求心的な抑えた響きが出せていない、つまり喧しい。

日本でも最も厳しい評価として、初日の文化会館でのコンサートに「到底CPの合わない管弦楽」とあったが、それはある意味正しい。私自身もホームグランドでのアカデミーコンツェルトに出掛けたのは初めてだが、少なくともコンサートゴアーズが毎週のように超一流の世界の交響楽団を聞いていれば到底お話しにならないだろう。個人的にもミュンヘンまで行って聞くような管弦楽団ではないと再認識して、逸早くベルリンのフィルハーモニカ―とコンサートで指揮して欲しく ― 三回ミュンヘンにコンサートに行くぐらいならば一回ベルリンにペトレンコ指揮を聞きに行った方が遥かに良い ―、 オペラは残された期間ミュンヘンで、そして逸早くバーデンバーデンでスーパーオパーを聞かせて欲しいと思った。

なるほど、後述するようにフィルハーモニカ―では出来ないようなことがこの座付き管弦楽団には出来るのだが、期待していたブラームスの響きとしてもあの管楽器では致し方ないと感じた。勿論管楽器奏者も素晴らしい演奏をして、特にフルートのソリストは最後に舞台上で駆け寄って長話の特別な奨励を指揮者から授けられていたようだが、今後名人奏者が続々と入団する訳でもなく、やはり上手いといってもフィルハーモニカ―のように数年で粒が揃う訳ではない。ジェネレーションが変わるまで不断の努力をするほかないのである。ゆえに次期音楽監督は超実力者でないと務まらないのである。そうなれば、今の様に楽譜に忠実な演奏形態を座付き管弦楽団が希求するならば、殆んどスーパーオパーに近づいていくことは確実であり、他のライヴァルの座付き名門管弦楽団とは一線を隔することになるだろう。

今回のコンサートでの楽員の表情には、容易に満足できていない表情があからさまだった。流石に演奏者自身だから出来ていないことがよく分かっているのだろう ― たとえ歴史的にそれ以上に真面に弾いている録音が皆無だとしてもである。そして公演の「角笛」写真でも比較的硬い表情を見せていた。それはなぜなのか、日本での評価も踏まえて関心のあるところだった。(続く



参照:
ブラームスの交響曲4番 2017-10-08 | 音
ベルリンから見た日本公演 2017-09-28 | マスメディア批評

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