Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

銀の細工の仇の薔薇

2017-02-08 | 
「ばらの騎士」のお勉強をしている。前回は著作権の関係で楽譜は見ていなかった筈だ。今回は楽譜があり、どうしても同じ演出で同じ劇場で演奏されている定番であるカルロス・クライバー指揮の二種類とその後にヴィーンで演奏されているものを参考にしたいと思った。現監督キリル・ペトレンコにとってもミュンヘンの劇場にとってもそれを抜きには考えられない。天才的な輝きでも比較されて、もう一つのヨハン・シュトラウス作曲「こうもり」同様に、聴衆の多くは双方を比較することになる。

クライバー指揮の「ばらの騎士」も録画は見ている筈で、その他にも幾つかの映像なども残っているので見かけたことがあるものだ。先ずは簡単にDL可能だったのは1970年代の新制作の後のそれで、初めて聞いたと思われるが、びっくりした。この天才指揮者の生も体験していてそれなりの評価をしているどころか、ドレスデンでの楽劇「トリスタン」もとても興味深く聞いていたので ― これは調べていると指揮者が歌手と衝突して投げ出したので編集してあるとあり、なるほど巷では絶賛されていなかった訳だ ―、このラディオ中継のとんでもない出来には大変失望した。まるで酔っ払い運転のような指揮で、これならば控え陣のシュナイダー等指揮の方が真面だったろうと思わせるほど水準以下の演奏をしている。当時の音楽監督はサヴァリシュだったようなので、あの程度だったのだろうか。

気を取り直して後のミュンヘンでの映像を聞く。基本的には変わりないが水準は大分上がっている。音は録りなおして繋げてあるのだろう。それでも拍節よりも指定したフレージングを軸にして、まるで父親が初演したアルバン・ベルクの楽譜のように解釈していて、最初から最後までがそのフレージングの繋ぎ合わせとなっている。これが音楽が湧き出てくるようだと絶賛されている天才の解釈ぶりのようである。

批判すれば限りないのだが、どうしてもアーティキュレーションでも無理がかかる場合があって、言葉詰まりのようになって折角作曲家が目指した言葉の聴きとれる演奏実践から外れている。比較的成功しているのは叙唱部分であったりする。なるほど芝居としてはブリギッテ・ファスベンダーを中心にそれ故に成功している面もあるが、その他のギネス・ジョーンズやルチア・ポップなどは音だけを聞いている限りそれほど成功しているとは思えない。

兎に角、音楽的には荒っぽいので、折角書き込んだ音符が正しく演奏されることが無い。座付き管弦楽団を熟知した作曲家が書いたものであるからそのように記譜されているとは言っても残されている作曲家指揮の録音などからすればこのような酔っ払い運転は想定されていない筈である。カルロス・クライバー指揮の演奏は恐らくフォンカラヤンの時代をとても反映しているものとして記録されるのだろうか。それでも一部にはこの指揮者を神と仰ぐような向きもあって、現監督が未だに半神であるからその威光は甚だしい。音楽愛好家に熱狂的に受け入れられたのもそのネオエクスプレッショニズムの面であるが、今回その代表的な録音を聴いて、その活動自体が時代の仇花のようになってしまったのにも気が付いた。



参照:
熱帯びた鬱陶しさ 2017-02-05 | ワイン
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
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