Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

苦労して獲得するもの

2015-03-30 | 
承前)「若い人をどのようにしてコンサートホールへと誘うか?」とサイモン・ラトルは、次のロンドンでの仕事先のホールについて最も重要視している。パリで成功しているように、建築的にも視覚的にも魅惑するものでなければいけないとしている。ベルリンでの試みは道半ばでなかなか思う通りに行かなかったようだ。そもそも民間の交響楽団では商業的な存続が第一となるので、教育や社会的な使命を考えるならば、公的な母体でなければならないだろう。

ロンドン交響楽団は、「補強の必要もあるが将来的な展望がベルリンのフィルハーモニカーよりも大きい」とするのは当然で、たとえばアバド指揮の「春の祭典」の録音にそれが実証的に記録されていて、SWF放送管弦楽団張りの鳴りにはまさしく若い人を刺激するサウンドがある。クラシックな意味ではロンドンのフィルハーモニーなどの方が充実しているのだろうが、爺婆の聴衆を魅了できても若い人にはどうだろう?

それと、適合するか矛盾するかは分からないが、ラトルはこの二つの交響楽団をフランスの赤ワインに喩えていて、ベルリンのそれをシャトーヌフに、ロンドンのそれをピノとしている。云わんとすることは、前者が力強く、暗く、アルコールが高く、後者は軽やかさをも持つということで、それがベルリンで苦労して手に入れているものかもしれない。

一週間前のアルテオパーでのマーラーの交響曲六番の鳴りはそれはそれは鮮烈なものがあり、同時に高品質のものであったのだが、ロンドンの交響楽団がBBCのそれ以上に新たなサウンドを提供できるのかどうかが成功への鍵となるのであろう。云うならば、ベルリンのフィルハーモニカーにそうした将来性が無いことは残念ながら認めなければいけないであろう。アバドの就任によって、強制的に鳴りを変えたのだが、それ以上にはラトルが出来たのかどうかはとても疑問であろう。

しかし、「薔薇の騎士」で本人が目したように、ヴィーナーフィルハーモニカーとは違って、「微妙で髭剃り刃の裏に潜んでいるような和声のキチガイじみた移り行き」をあのような形で示せたのはアバドのフィルハーモニカーではなかったのは確かだろう。ただしこれが次の時代にどれだけ引き継がれるかは分からない。その意味から来週のベルリオーズでもう一度確かめてみよう。

その弦の内省的なサウンドは、フォン・カラヤン時代にもなかったもので、シュヴァルベの弟子の安永らの時代にも欠けており、クスマウル教授らが救援に来なければいけなかった原因でもあろうが、これは立派なもので、ドイツの放送管弦楽団やロンドンの交響楽団では出せないものだろう。ラトル自身がこれを求めていたのは、未完成な形としてバーミンガムなどで試みていたことは分かっていたが、これだけは間違いなく成果だろうか。一方、管などのサウンドは、現実には名人マイヤーのオーボエなどを代表に、表現の幅としてあまり十分とは云い難い。

なるほど、アルテオパーではマーラーの交響曲でもまたイタリアのマタイ受難曲でも最後まで我慢できずに会場をあとにした爺婆がいたが、流石に「薔薇の騎士」ではそのような人は見かけなかった。それでもBRのHPの評にあったように、「肝心のヴァルツァーの嫌味」が十分ではなかったとする批判に相当する俗受けがなかったのは事実である。そこが、この楽劇の核心でも落とし穴でもあって、最も俗なものが最も高貴なものへと移行する瞬間でもあるのだ。これが、なぜこの楽劇がドレスデン行きの臨時列車を出すほどの成功をして、未だに俗受けするミュージカル顔負けの出し物である理由である。だからこそ其処を表現できるかどうかが鍵なのである。

新聞のインタヴュー記事に、以前の発言とは全く正反対に、ラトル家はベルリンに住み着いて、ロンドンでは四ヶ月ほどしか住まないとあった。あのときのインタヴューでは家族のベルリンでの生活を気にしていたことも辞任の理由に挙がっていたので、これまた驚いた。理由としてロンドンでは英国人としてもプライヴェートが守れなくなっているということだ。ベルリンはスイスではないので、それほど税制的に有利とは思えないが、少なくとも奥さんの仕事はし易いに違いない。今回も不思議なことに、一番最後にあまり評判の良くなかったオクタヴィアンを歌った奥さんが侯爵夫人のあとに拍手を求めるなどやや不可解なことがあった - しかしその演じるところの「薔薇の騎士」こそタイトルロールだというのもみそか。決して悪い歌手ではないのだが、少なくとも旦那がラトルでなければベルリンのフィルハーモニーカーと共演することはなかったであろう。

2017年には、ロンドンとベルリンの双方で監督をするとして、アルテュール・ニキシュのライプツィッヒとの掛け持ちを挙げて、昔はそもそも英国とドイツの管弦楽団の間にそれほど差がなかったと語る。後任の人事に関しては、欧州の音楽家で蚊帳の外に置かれてやきもきしないで良いのは自分だけだと喜んでいる。(終わり)



参照:
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音
受難オラトリオのコムニオン 2015-03-26 | 音
ラトルが語るその辞任の真意 2013-03-16 | 文化一般
Diese Musik steckt voller Rasierklingen, FAZ vom 28.3.2015

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