Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

GEWA' GEWA' PAPA PAYA

2013-02-11 | 文化一般
芸名イングリート ふじ子ヘミングというピアニストの演奏会に招待された。なぜか地元独日協会の後援になっている。動員が掛かったことは間違いないが、当日は私を入れて三人しか確認出来なかった。それでも新装なったマンハイムのクーアプファルツ候の官邸では三百人近くがリッターザールを満席にした。案の定スポンサーのJTBのバスが出ていて、フランクフルトか日本から日本人を連れてきているようだった。マンハイムであれほど多くの日本人を観たのは初めてである。

さて、感想はとても興味深く、寒い中を厚着をして行った甲斐があった。先ずはご招待に御礼したい。何よりもああした市場が存在して、現にあれだけの人が集まることを、そして普段はあまり演奏会などには行かない人や行く人も含めて ― 所謂ナティオナルテアターに顔を出すようなマンハイム辺りの地方大都市の一般的な聴衆程度 ― をエンターティメントする市場を改めて垣間見せた。

ご本人の演奏をYOUTUBEで確認して、際物というのは当たらないかなと思っており、もう一日の演奏会は閑古鳥が鳴いていた状況も聞いていたので ― 二回も興行を打ってでも地元新聞で広報されていないのは地元博物館の委員も驚いていたようだ ―、先ずはその入りと聴衆やその質に関心を持っていた。

そして演奏家としてのレパートリーも広そうで ― なんといっても一流以外ではこれだけ演奏会を打って舞台で練習を積んでいる例は珍しいだろう ―、中々エンターティメントする技術をも含めて、これはこれでプロフェッショナルだなと思い知らされたのである。例えば、一流に違いない内田光子が演奏中にショールを飛ばす、丁度落語で羽織を脱ぐように、この日本女性も奇抜な着物柄のそれを着たり脱いだりして魅せるのである。ある意味「芸者趣味の人たち」を喜ばす芸ではあるが、そこだけでもこの人の芸風や市場が示される。

そのピアノ技術に関しては、暴力(GEWALT)そのもので、日本の若い女子大生に多くあるような六十分一本勝負の女子プロレスどころか、先日紹介した同じ年齢の小野ヨーコが含まれるフルクセスそのものであり、プロフィールにはヴィーンの学生時代舞台に立ったのか毛色の違うブルーノ・マデルナの名前が挙げられているが、もし挙げるならシュトックハウゼンぐらいが恰好よかっただろう。要するに指で引く必要などはなく、お尻で鍵盤を押せばよいのである ― 猫の抜き足差し足はなるほど通常の芸術になりえるが、それぐらいに、右ペダルのアクセルを吹かしっぱなしで、その間に時々左ペダルのブレーキを踏む、古い東独のアウトバーンを黒煙の煙幕を挙げて疾走するヴァルトブルクのような塩梅である。

そしてこの年老いた女子音楽学生が ― 今まで直に有名になったメラニー・ディーナーなどを含む多くの学生の修了演奏会に招待されたが、その「学生生活」をここまで年老いるまで続けている人を知らない ― 日本でブレークしたと聞くと、百年ほど近く前に兼常清佐の「猫が鍵盤を歩いても同じように音が出る」の啓蒙の域から日本の大衆は全く出ていないことを思い知らされて ― ドイツにおいても芸術文化の趣味ということでは変わらないが、そうしたやくざ社会が白昼のもとに成立しない社会が良くも悪くも存在する ―、それは今後百年も同じことを予想させる。次から次へと大衆は生まれてきて、引き継がれる教養や趣味の良さというものがそもそもないものだから、高度な芸術の合理性や繊細さなどというものとは一切関係ないところでそれらしきものが営まれるのである。これは日本の文化芸術学問社会のあらゆる面において全く変わらない。

そして文化とか芸術などは高度に発達すればするほど毛細血管のようにとてもとても狭いところでとんでもなく厳しく棲み分けと生存競争が行われている世界であるが、それをテロリストのように暴力で風穴を開けようとするフルクセスのような活動が生まれたのだとも講釈可能だ。歴史に残るような超一流のピアニストたちだけでなく、彼らの調律師や、個人的に楽器の話をしたことなどがあるメージャーレーベルでソロアルバムを何枚も出すような世界の一流のピアニストたちのことを頭に描いてせば、如何に自らの芸術を世に問うためには追いつめた世界での挑戦が繰り返されていることかであり、そうした何もかもを簡単に壊して見せる運動がそれなのだ。

私は、超一流のアルフレート・ブレンデルが日本で評価されだした時の「ペダルの多用」などという批評を今更ながら思い出した。当時はその意味がもう一つ理解できなかったのだが、なるほどそこまで楽器と芸を追いつめるかどうかということであり、日本の音楽学生や評論家の程度ではそのようにしか理解されなかったことが改めて理解できるのだ。ピアノほど西洋近代的な文化はないかもしれないということになる。そして、そのブレンデルこそが自らの分を誰よりも弁えていて、レパートリーを絞りに絞ってとても空気の薄い頂点のところで生き続けたのである。

そうした大気圏すれすれのようなところで切磋琢磨しているのが超一流の世界であるのは芸術文化には限らないが、マネージメントにおいての地元の有力新聞紙には声を掛けないとか適当な地方大都市を会場に選ぶとかの腕利きのマネージメントというのはエンターティメント業界にも存在しているのだ。

但しである、趣味の良さ悪さというのはこれはどうしようもない。だからチラシにもあれほど超一流の技術を駆使しながら趣味の悪い音楽家もいないミーシャ・マイスキーがこの女流を称して、「忘れがたいピアニスト」と言うのに尽きる。喋っているのを聞いて彼女が本当に聴覚障害があると思わない。それは、なにも楽聖のように耳に貝を当てていないからというわけではない、単に商売上の完璧なエクスキューズとしか思われない。

兎に角、ピアノを聞きに行って、「やめてけれ、やめてけれ、ゲヴァゲヴァ」と心の中で叫んだのは、シュトックハウゼンの演奏会でもヘスポス作品の会でもなく、今回の演奏会が初めてだった。そして、開始後直に一人の日本人男性が椅子から転げ落ちて大きな音を立てた。奥さんの慣れていない様子から癲癇もちでなかったとすると、文化的環境汚染に毒されて失神したのだろうか。
 


参照:
フルクサスからフラッキング 2013-02-07 | 女 
決して民衆的でない音楽 2008-12-09 | 歴史・時事
胸がムカつき痛み嗚咽する 2012-05-28 | マスメディア批評
蜉蝣のような心情文化 2008-05-14 | 文学・思想
若手女教授の老人へのマカーブル  2010-03-19 | 音 

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