Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

管弦楽演奏のエッセンス

2016-09-14 | 
開演一時間前から楽曲のオリエンテーションだった。価値がある場合とあまりない場合と様々だが知らないところではどのようなことをやっているかだけでその公演の程度が知れる。ケルンの老音楽学者のもので ― 因みにプログラムはBLOGでもお付き合いのあったマインツの比較的若い音楽ジャーナリストが書いている ―、プログラム順に音資料を使っての楽曲解説である。先ずはリゲティ―の「ロンターノ」。最も良かったのは音を鳴らして特定のAsやGなどに注目させるのと同時にそれによって全体の音のスペクトラムの空間占有感を意識させれたことだろう。要するにざっくりとした遠近感を以て全体像を上手く示していた。二曲目のバルトークの曲に関してはヴァイオリンの主題の音程・音階をしっかり追うことでその展開の仕方まで示していたことだ。勿論作曲の背後関係の男女問題への言及も忘れないどころか、しっかりと「二つのポートレート」そして「バガテル」へのパロディーつまり死のメロディーを付き添わせる方法にも言及していた。さて、最後のチャイコフスキーはどうだったか。基本的なアナリーゼの域を出ていなかったのはなぜか?

今回はもう一つの冊子がある。それはツアー全体を扱った劇場が出しているプログラムである。そこには全楽曲へのキリル・ペトレンコのコメントが書かれている。そのチャイコフスキーには次のようにある。「チャイコフスキーは西欧では屡々一面的にしか見られていません。私にとっては、ブルックナーに言及して決して線香臭い訳でもなく熟練した交響作曲家を示したいとしたギュンター・ヴァントに近いのです。チャイコフスキーに関しても全く同じで、交響曲を書き、それは交響的な展開、頂点と奈落がそれを可能とするテムポの中に有機的に存在するのです。ノスタルジーやセンチメンタルを付け加えることなど必要なく、さもなくば歪められ、直ぐにキッチュなものとなってしまうのです ― しかしそれが演奏解釈という事になっているのです。作品自体が内面から来るもので書物から来るものではありません。ハンス・マイヤーが、ヴァイオリン協奏曲と第五交響曲に関して、アウトサイダーについてのスタディーで、全く強い調子で、それらの作品について解説しています。この交響曲は作曲家の代表作で、それ以下でも以上でもないというのです。チャイコフスキーのエッセンシャルは、人生において幸福に至るという不可能を扱うということです。このコンフリクトを音楽的に提示する試みは、第四番においてはベートーヴェンから借用した夜を通っての光のドラマトュロギーで終わったり、第五番では更に深く、曲がりくねった苦労と懐疑と戦いで以て乗り越え、第六番では暗い諦念でと様々なのです。チャイコフスキーの音楽はいつも繰り返し全く個人的な恐れを語るのです。」

そして実際に鳴り響いた音楽は如何なる響きだったか?なによりもそのテムポについて語るべきなのかもしれない。それは楽曲の事前勉強としても確認していたことであり、本来ならば何一つ付け加えるべきではないのかもしれないが、上の文章にあるように再現芸術における演奏解釈というものがこの業界には存在していて、宿命的な問題となっている。なるほど、当日のリゲティの楽曲分析に関しての話にあったように、楽譜に全てが書き込まれている訳であり、ある意味解釈の余地がないとなれば話は早い。実際に一曲目に演奏されたそれは楽譜の指示通りに、「アクセントなどを避けるために」などとあるように、とても柔らかな音色で、丁寧にむしろ抑えられた音響で演奏された ― その意味からはジョナサン・ノット指揮のベルリンのフィルハーモニカ―の演奏録音などでは指揮者エサペッカ・サロネン以上に作曲家に批難されるのかも知れない。会場のデッドなベートーヴェンハレはこうした響きの減衰が命の曲には残念ながら全く向かなかったが、少なくともこの座付き管弦楽団はヴィーンのそれのような独特な響きがない分、柔軟な音色を奏でていたことは確かであり、団子になるようなことも無く、ダイナミックスを正しく再現していたことは事実だろう。指揮者カルロス・クライバーがこの管弦楽団に対して評した「やる気満々で、大胆で、これほど生気溢れる管弦楽団は無い」というのがここでも十分に当てはまる。

チャイコフスキーにおいても、楽譜にしっかりと書き込まれていて過不足がない筈だとするのがインタヴューでも暗示されていたのだが、現実にはそのテムポすらなかなか正しく再現されないということかもしれない。ストップウォッチを見て確認したわけではないが、かなり快速なテムポでありながら、絶妙なテムポ変化と電光石火のギアーチェンジによって、大きな対照と自然な構造を表出していた。この指揮者の奈落での指揮とコンサートでは最も異なるのは、ここではもはや伴奏ではなく主役であり、指揮者自らが演奏家であるということだろう。つまり、楽曲の変化は指揮そのものなのだが、おそらく小澤征爾ぐらいしか比較しようのない見事な指揮であり、ショウである以前に演奏行為そのものなのである。小澤と比較してもはるかに情報量が多く、まるで千手観音のようで、腰まで使い熟すのには驚いてしまった。なるほど、そのテムポだけでなく、リズムの精査も比較しようがないほど精妙だ。なるほど昨今は指揮の技術に関しては、卓越した人が多いようだが、それがこうした実質的な楽曲演奏に直結する例はあまり多くないのではなかろうか。一瞬の局面の変化にまた刻々移り変わり行く音楽にその指揮が直結しているという意味においての緊迫・緩急感は秀逸で、フルトヴェングラーにおける曖昧さと同じように楽員共々目が離せない。

なるほどいつものようにホルンのフラジョレットトーンなどが明白に指示されて紛れもなく鳴らされるのだが、そうしたものが強調されて原色的に響くというよりは構造の中での意味合いを主張するということで、耽美的なクラウディオ・アバド指揮などのサウンンドとは全く異なるものなのである。敢えて挙げれば、今回試聴した録音の中で、音楽的に立派なイェフゲニー・ムラヴィンスキー指揮のものと、ミュンヘンに客演?していた当時のチェリビダッケ指揮のものが比較対象になるだろうか。前者のそれとは全く異なるのが、其とは比較不可な柔軟性であり、同時にチェリビダッケ指揮のものよりも遥かに合理的な構造が浮かび上がることであろう。そうしてこうしたものが、必要悪の演奏解釈というものなのだろう。(続く



参照:
今こそ睡魔と戦う時 2016-09-12 | 音 
斜陽のボンに涼むとき 2016-09-13 | アウトドーア・環境
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