Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

高みの環境への至福の処

2015-08-15 | 
2015年のバイロイト祝祭での楽劇「ジークフリート」試聴の続きである。第二幕においてはジャーマンウィングス事件で死亡した前任者に代わったアルベリヒ役がとても安定している。前「指輪」ではヴォータンを歌っていたというから当然なのかもしれないが、それゆえに声の軽いさすらい人ことヴォータンを歌うコッホの声が余計に軽く感じられてとても都合が悪い。そもそもこのベルカントのバリトンを中心に据えたのだから、他の役柄の配役も適材適所では逆にあまり良くないのだ。その意味からこの幕もあまりに無難な歌手が歌うところになると折角の管弦楽の色合いもなかなか活きてこない。しかし第三幕のイタリアレストランでの街の占いマダムとやくざを演じるエルダとヴォータンのディアローグが、「企画」の成功例として、それゆえに余計に際立つことになっている。

総体的に第三幕になってはじめて管弦楽が覚醒したようになってくるのもこうした歌手の配役上の問題が深く関わっているようだが、その流れで第三場の始まりで昨年の記憶が漸く蘇った。特に昨年の甘えた声のライアン演じるジークフリートの舞台とここで始まるセンシティーブな情景は全体の一つの頂点でもあったのだ。

なるほど第二幕冒頭のアルベリヒのモノローグにおけるチェロと管のユニゾンにおいても確りと管を浮き立たせる。その合理性の根拠に触れる以前に、創作者の意図について考量してみる。そしてまさしく第一幕に続いてこうした積み重ねから、その間に作曲された楽劇「トリスタン」や「マイスタージンガー」を挟んで、量子的な跳躍がなされたとするのが音楽史的な結論である。

そしてこの第三幕三場の第一ヴァイオリンによる高みへの歩みへと、その運命のお告げがなされる頂のドルツェからポコ・ラレタンドへと至るのである。そしてジークフリートが「selige Öde auf wonniger Höhe」と歌い始める。楽匠がアルプスの高嶺を仰ぎ見る清々しさと、畏敬の念とその感受性の表現である。この部分だけでも様々な録音を比較してみると良いかも知れない、そして生のその響きを体験する必要があるかもしれないと思わせる響きがそこにあった ― まさにこうしたところにこの指揮者の有無を言わせぬ天性の輝きがあり、誰も語らないがカストルフの演出にも敏感に呼応している実例でもある。

この続きでは、四分音低い音程で歌うと批判されるビュルンヒルデ役のフォスターもだら下がりの印象を覆す歌唱を繰り広げて、新しいジークフリートも声を飛ばしてしまっている。この録音の公演自体は、そのブーイングでも分かるように、可也の「衝撃」があったとするのも事実で、更にヴォータンの歌い出しが落ちたりと、全体に傷が多かったのは間違いなさそうである。第二幕の剣の代わりのカラシニコフの連射の音も若干抑えられたように感じられるが、そもそもそうした情動を引き起こす楽劇であり演出で、個人的には昨年のこの上演が特別印象に残ったのだった。



参照:
愛があるかエコの世界観 2014-07-21 | 音
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
そこが味噌なのですよ! 2015-08-13 | 音
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