Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

1861年版のドイツ語上演とは

2017-05-16 | 文化一般
承前)週末はやくざな上演モンテカルロからの録画「タンホイザー」で腹立たしい思いをした。結局三幕まで通して観て、楽譜に目を奪われていて観ていない演出動画は美しそうだが、短縮のヴィーン版というものをフランス語で上演したものと理解した。ヴィーン版とやらを改めて調べないでも良さそうで、そこで上演されているように折角新たなに筆入れした音楽があっても、あのような上演形態と質ならばほとんど何も効果を上げていないことも確認した。寧ろその管弦楽の演奏からバランスが悪いような思いは強く、なるほど死の直前、ヴァ―クナーがコジマに「この世に借りを残したままだ」と気にしていた理由も分かる。あれほどの楽匠でも長い期間をおいての古い作風への筆入れが面倒な課題だったことがよく分かる。

それにしてもあれだけの綺麗な舞台を制作していて、態々ヴィーン版をフランス語上演しなければいけなかった理由は納得できないのだが、最終的には音楽的な趣味の悪さということになるのだろうか。ストッツマンという女性指揮者は歌手として成功していて小澤指揮で最近までアルトで歌っている映像があるが、そのような清潔な音楽が出来るような指揮ではなかった。管弦楽団だけでなくて指揮者にも責任があるのは間違い無さそうで、拍節がはっきりしないでも完全にアンサンブルが崩壊してしまわないのが見事である。それはタンホイザーを歌うホセ・クーラの歌唱も指揮者の責任だけではないのは明らかだった ― 昨年のザルツブルク復活祭で「何を歌っているのか皆目分かっていない」と非難された歌の伴奏がティーレマン指揮だったのも偶然ではなかった。

小節を利かした歌唱をも包み込んでしまうような拍節が無くなるような音楽運びが、所謂「オペラ指揮の妙技」というものなのだろう。このような塩梅だから音楽愛好家はオペラ劇場などというものには足を運べなくなるのである。タイトルロールがマグロのように横たわっているのを見ると村芝居にもなっていない。

うんざりしてそうこうしているうちに、ベルリンでの1861年版らしき上演のヴィデオが見つかった。序曲から流してみたが、流石に座付き管弦楽団でも同じ首都でも流石に質が月と鼈の違いである。バレンボイムの指揮はいつもの通りだが、これは全曲聞いてみなければいけないと思った。
Richard Wagner - Tannhäuser HQ


ミュンヘンの「タンホイザー」の新たなヴィデオが公表された。「弓と矢」の象徴らしい。矢に射抜かれるのはいつもタンホイザーらしい。ハープと弓の関係は面白いが、個人的にはやはり矢の運動性だろうか?
TANNHÄUSER – Castelluccis Bildwelten: Episode 2 "Pfeil und Bogen" (ger/en)


ヴィーン版をフランス語で上演するのに対して、ミュンヘンではパリ版をドイツ語で上演するのだという様子なのだが、ベルリンのそれとはどのように異なるのかの方が関心事になって来た。(続く)



参照:
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
美学的に難しい話し 2017-04-25 | 文化一般
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