Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

私の栄養となる聴き所

2014-07-14 | 
楽劇「指輪」第一部「ヴァルキューレ」へと進む。数学者プリングスハイムの1876年7月17日の日記に、なぜ現在の音楽愛好家も未だにこの出し物に難儀しているかの本質が、楽匠本人の言葉として明白に吐露されている。

特にこの第一幕を称して「これは私の栄誉で、― 栄養なのだ」と、バイロイト初演の総稽古を終えて、とてもご機嫌な表情で皆の前に現れて語っているのである。つまり、Du bist der Lenzの箇所の効果は大衆を魅了して、この「オペラ」の単独再演を活発にさせて経済的な栄養源になっていると豪語して、そこが稽古で上手く行ったことでご満悦だったのだ。さてプリングスハイムの方は、指揮者リヒターが前奏曲でどうしても前のめりになるのを苦にして、また演出もすでに経験したミュンヘンでのそれに劣るとしている。

第二幕に関しては、前奏曲の効果を称えつつも、管弦楽法が低音楽器に固まっていて、導入した五本のヴァークナーチューバの威力は認めるとしても、まるでオルガンのようだと、そのモノトーン振りを批判している。更にフリッカの独唱に対応するヴォータンのそれも長く ― 初演のベッツは絶賛しているが、稽古の中断を挟むとどうしても緊迫感がなくなってしまって致し方ないとしている。

これらの点に関しては手元にある1965年のベーム指揮の実況録音が一つの回答をしている。一幕の管弦楽もモーツァルトの眼鏡でと称されたように可也分析的な演奏をしていて、この指揮者のいつもの弦楽の鳴らせ方やアーティクレーションの厳しさが、プリングスハイムの言うとてもトリスタンに及ばないとされる俗向きを狙ったこの一幕でもとても手際がよく明晰な音楽表現として成功している。なるほど批評にある前のめりになるところもこうした明快な発声で、あの奈落の底からとは思えない素晴らしい演奏実践である。ジークムントを歌うのジェームス・キングのあの高音に隠れるようだが、リザネックのジームリンデも楽しめる。しかしなんと言ってもニルソンのブリュンヒルデの歌が素晴らしい。

二幕の当該箇所は、殆ど古典的な叙唱を更に強調するようなベームの指揮に加えて、恐らくヴィーラント・ヴァーグナーの演出家としての指導が、とんでもなく明快なドイツ語の叙唱として実現化されているので、前出の批判は必ずしも当たらない。戦後のバイロイトにおいてこれほどに明快なドイツ語が聞けるとは思わなかった。ヴォータンのアダムも後年のそれとは異なり声の力で素直な声楽表現となっている。

ここで関心が向かったのは、フルトヴァングラーが1954年の最晩年に録音したもので、その前にローマで放送録音していることから、本人自身の体調もあり、ヴァルター・レッグの勧めにあまり乗る気でなかったといわれるもので、一般的に最も評価の低いフルトヴァングラーの録音の一つである。これが思いがけず素晴らしかった。なによりも、その二幕の長いモノローグやダイアローグでのとても分りやすい音楽である。これならばプリングスハイムも文句は言わないであろう。その動機の読み方がまるで講談かなにかのように言葉のアーティキュレーションとともにとても説得感があるのは、フルトヴェングラーのヴァークナー解釈の特徴で、最も通向きと思われたこの楽劇が絶大な説得力と芸をみせる。モノトーンといわれるのはそもそも指示動機間の関連があるからで、このように動機の力感や色合いまでに拘るこの指揮者の練習風景を思い起こさせるほどの解析が出来ていない限り、これほどの説得力をもちえないのである - ベームのやり方がまだまだ一本調子だと思わせる。全く他の追従を許さない。

その大きな息使いの悠々とした音楽に乗って、「トリスタン」の名演で金字塔を為した同じズートハウスのジ-クムントの歌唱が素晴らしく、ミラノでのヴィッカースとは全く役者が違うのである。若いリザネックのジークリンデが霞んでいる。

因みにその後に比較対照のためにカラヤン指揮の録音を聞くと、なるほど作曲家が狙った大衆効果を敢えて外してリリックな歌唱と室内楽的な管弦楽で違いを見せているのだが、結局は一幕においても最後の最後のフィナーレに山を持ってきていて、そこでいつものカラヤンサウンドが全開される構図となっている。バイロイトのそれに対抗してのザルツブルクの復活祭のためのものであるが、肝心の第二幕などでは、休憩後の聴衆は眠ってしまっていたのではないだろうか?要するに復活祭音楽祭の聴衆は世界から集まったエリート集団であり、通常の意味での大衆ではなくて本物の俗物だったからこそこうした狙いを絞れたのだろう。もちろんもはやインターナショナルな感覚の歌手陣しか揃わない時代を体現していて、いつものベルリンのフィルハーモニカー主体のオペラ上演なのである。さらにこのような演奏実践は専門家筋からも決して批判を浴びないことを計算してのことである。楽匠顔負けの策士家である

二幕においては作曲家も一幕とは異なって可也思い切ったことをしているようで、フルトヴァングラーのような確かな想像力と表現力がないと冗長な感じを受けるので、どうも一幕の印象にも影響してしまうようである。「トリスタン」への準備というか、ここに最晩年の創作への流れが既に見て取れるのである。その点で、この二幕はその指導動機や展開の方法を含めてとても興味深い。

第三幕は、ヴァルキューレの騎行からヴォータンの告別まで、それほど問題は無い。ここでも意外にカラヤンはその室内楽的な演奏とリリックな歌声であまり成功していない。ベーム盤のニルソンの歌声も実演の録音技術と難しさでそれほど効果を上げていないが、ここでもフルトヴェングラーのテンポはとりわけ説得力がある。

あとは、第二夜「ジークフリート」、第三夜「神々の黄昏」へとジークフリートやヴェルズンクの動機だけでなく、既に登場した動機とその後の展開が如何に有機的に結び付けられているかが、注目の的である。



参照:
前夜祭ならではの祝祭感 2014-07-08 | 音
雨降りの日の室内生活 2014-05-02 | 生活
神話に繋がる夢物語 2013-08-21 | 文化一般
素朴さ炸裂のトムちゃん 2009-01-25 | マスメディア批評
前に広がる無限の想像力 2008-06-17 | 音
臨場のデジタルステレオ 2006-12-02 | 音
豊かな闇に羽ばたく想像 2006-08-20 | 文化一般
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