Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

自分らしくあれる社会

2016-07-03 | 文学・思想
歯を磨いた。歯ブラシで問題のところを振動させた。違和感は無くなった。歯根がしっかりしてきたようだ。買い物に出かけるときに朝の静けさを感じながら考えた。確かべート―ヴェンの晩年の四重奏曲に「病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」とかあったなと、脳裏に響いた。そしてまさしくそうした世界観こそが啓蒙主義のそれだったと思い起こした。そうした精神世界が今でも教養として活きている一方、私たちの今日も刻々と動いでいる。

秋のボンでの音楽会まで二月に迫っていたことを思い出した。プログラムのチャイコフスキー第五交響曲しか頭になかったが、他の重要な二曲を思い出して焦った。幸い、十分ほどの間に、注目のリゲティ―作曲ロンターノとバルトークの第一ヴァィオリン協奏曲の資料を集めることが出来た。リゲティ―はポケット版ぐらいがあれば価格次第では購入してもよいかと思ったが、ショット社のサイトでそれどころか貸し譜しか無いことが分かった。さらに調べてみるとpdfコピーがあったので落とした。これはとても助かる。チャイコフスキーにはそれほど時間を掛けることはあり得ないと見積もっていたが、他の二曲は関心が深まると演奏時間の割にはお勉強に時間が掛かるかもしれないので要注意である。

秋のベートーヴェン祭のこのコンサートは会場の小ささから完売していた。初めの発券の出だしは悪かったが、ある程度の関心ある向きには聞き逃せないプログラムである。バーデンバーデンのベルリナーフィルハーモニカ―演奏会の方はまだ完売していなかった。

山本太郎の外国特派員クラブでの会見を観た。日本の政治家でここまで立派に世界に向けて話をすることが出来る人がどれぐらいいるのかと思った。やはりこの人も現在東京選挙区で格闘中の三宅洋平に決して引けを取らないタレントだと確信した。ここでも初当選後の時期に元俳優というのは、その習った職人的なものに加えて役者ということでは文化人でもあると書いたが、本人は大した俳優などではないと語り続けていた。それがどうだろう、やはりその喋りの確かさだけでなくて、下手な通訳を通じてでも聴衆に合せて話の要旨を伝える能力は抜群である。以前にも役者としてのレトリックやそうしたものこそタレントであると書いたのだが、こうした外国向きによく練られた脈絡と内容を臨機応変に滔々と語る。それどころか耳が良いのか英語にも十分に反応していて驚いた。これほどの日本の現役の政治家を知らない。目標は総理大臣だと冗談めかして言うが、この人たちが政治力を持つようになれば、そのような選挙制度や選挙がなされるようになれば日本は変わるだろう。二世、三世の盆暗よりも、本当の意味でのタレントが政界で働くようにならなければ駄目である。

ネットでは三宅洋平の選挙フェスに鳩山由紀夫が登場するかもしれないと流れていたが、本当に登場するのだろうか?まさしくこの人は三宅洋平が指す累進課税で納税して貰って、相応の尊敬を集めなければいけない一パーセントの人である。その財産は日本の政治を変えたが、その使い道は本人の意思次第である。現在の巨大な対米従属の官僚組織に自らの財産を委ねようとするのだるうか?自己矛盾とはならないか?国の使命の一つに富の分配があるのは間違いないが、その組織が富を食ってしまうのではどうしようもない。だからこそドイツの緑の党は秋の選挙でのキリスト教民主同盟との連立に配慮しながら「機会の均衡」を上げ出したのである。これは正しい。機会均衡で目指すのものは「自分らしくあれる社会」であるべきだ。



参照:
ボンで「ロンターノ」1967 2016-04-24 | 雑感
とてもあつい選挙フェス 2016-06-27 | 雑感
選挙フェス020716 (Lignponto)
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