Petrol Bug's
―― The Restoration Report of 1933's THE SUNBEAM MODEL 8 ――
 



さんざ迷った挙げ句、結局やることにしたSUNBEAM Model 8のレストア…。もう人生とかなるようになるかなーって。何か道を踏み外した気がしないでもないけど、気のせいでしょう。



1933年のSUNBEAMはというと…。1930年に一時ラインナップから姿を消していたModel 8, 80(OHV346cc)が再び現れた年で、他にはLion(SV492cc/599cc)Model 9(OHV493cc/596cc)Model 90(OHV493cc)など計7モデルがラインナップされていた。エンジン、ミッションは基本的には32年モデルの改良点をそのまま受け継いでおり、クイックスレッドクラッチメカニズム(?)4速ギアボックス。あとは細々チェーンケースがオプションになったりキャリアがどうのとかあるみたいですが、ちょっとよくわからん。





上が1933年、下が1935年。これも比較しづらい。以下、他年式の資料写真。


Model 8 1929'(photo from British Only Austria










































Model 8 1934'(photo from Yesterdays











 


1935'



というわけで…。1933's SUNBEAM Model8 350ccはじまるよ!助けて!
 

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小地主の息子として生まれ、15歳でウォルバーハンプトンの漆器工に弟子入りしたジョン=マーストンは23歳にして漆器業者として独立。師の事業を引き継ぐなど成功を収めた後、自転車の生産をはじめる。John Marston Limitedが生産する自転車の商標は、妻エレンの提案によって「SUNBEAM」と名付けられ、ポールストリートの工房は「SUNBEAMLAND」と呼ばれるようになった。ジョン=マーストンの完璧主義は、サンビーム自転車の高い品質に反映され(ドライブチェーンがオイルバスを持ったケースで覆われ、中のオイルによってチェーンを常に潤滑清掃する仕組みを持つなど)、事業は大成功。その後、彼はモーターサイクル生産へと乗り出す。しかし、1903年頃から自転車へのエンジン搭載を試みるものの(*1)その結果は失敗続き。ついにはテストライダーから死者が出る始末で、ジョン=マーストン自身の個人的バイク嫌い(彼は生涯を通じてバイクにも自動車にも乗らなかった。理由は「危険だから」)も手伝って、開発は一時頓挫。代わって1905年にサンビーム自動車が設立されるが、ヒット車を生み出すことが出来ずこれも不振。結局彼は、拡大成長する市場を狙って再びモーターサイクルの開発を進めることとなる。

Rover、JAPのエンジニアであったジョン=グリーンウッドを招き入れ、同じウォルバーハンプトンのメーカーAJSの天才ハリー=スティーブンス(1897年、弱冠21才にして完全な独自設計エンジンを製作)の協力を仰ぎ、1921年(マーストン76歳当時)にサンビーム最初の商業モデルが完成する。単気筒SV349cc、2.75馬力エンジン。マグネトー点火、2速トランスミッション、チェーン駆動。サイレンサーは「pepperpot」タイプ。ダイヤモンド・フレームにDruid式フロントフォークの車体は、後にサンビームブラックと呼ばれるに至った黒い塗装で仕上げられ、初期のガスタンクはグリーンに銀色のロゴが入っていた。このモデルは、当時の価格で60ギニー(*2)で売り出されたという。

 1912年

当初の生産はオールハンドメイドで生産効率も悪く、販売も既存の自転車販売ネットワークを通じてのものであったため、既にトライアンフ、AJSなどによって形成されつつあった英国モーターサイクル市場になかなか食い込めなかった。しかし、同年12月に開催されたロンドン~エクスター間往復レースで2台のサンビームが2つの部門で優勝。その名は一躍有名となる。翌1913年6月にはJAP製76×85mmツインエンジン(3速ミッション、6馬力)を搭載し、フレームを強化した車体を発売。9月には初期型についてもマイナーチェンジが行われ、エンジンは3.5馬力4,000rpmにパワーアップ、3速度ギアボックスと1.5ガロンのガソリンと2パイントのオイルが入るタンク、リアタイヤの修理が容易な数々の機構を備えるなど改良も行われ、66ギニーで販売が続けられた。これらの車体を使い、サンビームは数々のレースに出場。ライダーでもあったジョン=グリーンウッドや同僚のトミー=デ=ラ=ヘイ、ジョージ=ダンスなどによって多数の栄冠を手にし、さらにはプライベータによってもよい成績を残すなど、レースでの名声を不動のものとする。また、同年広報活動として行った3つの登山にも成功。6月6日にスノウドン山、7月13日にベン=ネヴィス山、その少し後にはジャワのトサリ山(5,825フィート)を走破、喝采を浴びた。1914年にはグロリア製のサイドカーを持ったGloria No.1、Gloria No.2が登場。No.1は3.5馬力モデル用で15ギニー、No.2は6馬力用で24ギニーで販売された。

 1914年

1914年、第一次世界大戦が勃発。サンビームも軍用車両の生産を余儀なくされる。悪路に対して絶大な性能を誇ったサンビームは、開戦翌年に開かれたスタイルコップ・ヒルクライム大会で9つのメダルを獲得。それを受けてサンビームの軍用車両は、山岳地帯の多いイタリア戦線、シベリアの泥濘の中を走るロシア戦線などに配置された。1919年末に大戦は終結するが、この年はサンビームにとっては悲劇的な年となる。年初にマーストン家の三男にして有能な経営者であったローランド=マーストンが45歳の若さで死去。後を追うようにしてその6週間後にエレンが、そしてジョンも彼女の葬儀の後すぐに死去してしまう。休戦協定後、サンビームの経営体制を立て直したのは、父ジョンの命によりビリヤース社に奉公に出され、同社で頭角を現していたマーストン家の長男チャールズだった。相続税支払いのために、彼はジョン=マーストン社を戦時中軍需メーカーとして好調だった合弁企業へ売却。1919年にはその合弁会社も買収されて、ノーベルインダストリーの一部となる。世襲をよしとせず、あくまで投資家として会社に関わった彼は、会社の実務を父の右腕だった人々に託し、速やかに会社機能を回復させることに成功した。戦時下に生産されたモデルをうまくモディファイしつつ多様な車種を揃え、同年早くも再開されたオートバイレースにおいてもサンビームは素晴らしい成績を収めている。

 1925年

1920年トミー=デ=ラ=ヘイによって念願のマン島TT制覇を成し遂げるなど、その後もレースの世界ではしばらく順調だったサンビームだが(*3)、一方で世界恐慌や度重なる合併の影響(*4)で販売は落ち込み、会社の規模は縮小(1931年にはマシンのラインナップが最盛期の11機種からわずか4機種に)。追い打ちをかけるようにジョン・グリーンウッドが引退し、この後の凋落に一層の拍車がかかることとなった。この頃生産されたマシンの質はまだよいものであったが、新技術や新しいスタイルの導入に失敗し、伝統的なクラフトマンシップも失い、もはやバイクのロールスロイスとは言えなくなっていたという。

 1927年

1935年頃にはサンビームの自転車部門、モーターサイクル部門は双方明白な停滞状態にあり、ICIは売却を検討。翌1936年AMCがこれに応じ、生産拠点をロンドンに移してサンビーム自転車とサンビーム自動二輪車を設立。AMCは製品の質的向上に尽力したため(*5)サンビームのブランド名は再び高い評価を受けるようになったが、1939年に第二次世界大戦が勃発。1943年に再びSUNBEAMの商標はAMCからBSAへと売却され、その生産はBSAの下で(*6)続くこととなる。1946~56年には大戦中のドイツ軍が使用していたBMWにインスパイアを受けた3つのモデル(S7など)が、そしてその後の1959~64年にはさらに2つのスクーターが生産された。1956年、資金面の問題から、BSAはサンビーム製品の生産を終了。これによりサンビームは、名実共に過去のメーカーとなる。

引用要約出典:
http://www.johnbull.jp/general/bikes/03.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Sunbeam_(motorcycle)
http://www.thesunbeammotorcycle.co.uk/History.htm

*1:サンビーム自転車をモデファイし、エンジンはスイス製のMotosacocheを載せたと思われる。 チェーン駆動のための「Little Oil Bus」の特許などもこの頃副工場長のジェームス・モーガンによって申請取得されている。

*2:1ギニー=21シリング。つまり1260シリングで63ポンド相当。ギニー金貨は1816年に既にソブリン金貨(1ポンド)に取って代わられていたが、1971年の十進法移行まで医師や弁護士への謝礼や品物の鑑定料、土地、馬の取引等の名目単位として使われていた。

*3:1912年 ロンドン~エクスター間往復レースで2台のサンビームが2つの部門で優勝。
  1914年 ハワード・デイヴィースがマン島TTシニアレースで2着入賞。チーム賞獲得。
       ミッドランドリライアビリティートライアルでトミー=デ=ラ=ヘイと
       ジョン=グリーンウッドが6馬力マシンを駆り金メダルを獲得。
       ヴァーノン=ダドリー、チャーリー=ノークス、ジョー=ダドリーも
       3.5馬力マシンで上位入賞を果たす。
  1915年 スタイル・コップ・ヒルクライム大会で9つのメダルを獲得。
  1920年 マン島TT初制覇(Tommy De La Hay/シニアレース/平均速度51.79mph)
  1921年 George Danceがブルックランズで活躍(350ccクラスで82.25mphの新記録を樹立など)
       2度目のTT制覇(Alec Bennett/シニアレース/58.33mphの平均速度)
       _ちなみにこれがサイドバルブマシンによる勝利の最後。
  1928年 3度目のTT制覇(Charlie Dodson/シニアレース/平均速度62.98mph)
  1929年 2年連続4度目のTT制覇(Charlie Dodson/シニアレース/平均速度72.05mph)
       _1924年にハワード・デイヴィスによって発明されたサドルタンクを初採用。
       30分47秒、73.55mphという記録的なスピードで最高速ラップ樹立。
       3年連続チーム賞獲得。

*4:1926年親会社である化学企業ノーベル工業が他の英国化学企業4社と合併。ICI(インペリアル・ケミカル・インダストリーズ)となったことで、オートバイ部門の子会社であるジョン・マーストン社は軽視されはじめていた。

*5:A SeriesB Seriesなど。



1939年 B28(598cc)

*6:主力工場であるバーミンガムスモールヒースではなく、ウースターシャーレディッチの別工場で生産された。
 

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