
娘の大学受検支援のため、とある大学のオープンキャンパスの模擬講義を受講した。この中で、先生は、パスカルのパンセ(瞑想録)は大変良い本なので、ぜひ一度読むことをお奨めすると受験生である高校生に話した。
実は、恥ずかしいことに、パンセ(瞑想録)の中の「人間は考える葦である」の言葉は知ってはいたが、実際にパンセ(瞑想録)を読んだことは私の数十年にわたる人生中でも一度も無かった。
そこで、図書館で借りて読んで見ると、彼は数学者で合理主義者であるにもかかわらず、敬虔なキリスト教信者であることがわかった。
また、パスカルは、パンセ(瞑想録)の中で、私が疑問に思っていた「イエスの言われる永遠の命」に対する一つの回答を与えていたのである。
キリスト教信者になれば、無限の命と幸福が与えられるというのであれば、我々の死後、無限の命か有限の命かを誰にも確認ができないし、例えそれが有限の命であったとしても失うものは何も無い以上、理性を捨てて、無限の命と幸福を選択すべきではないかと主張するのである。
何事も合理的に考えようとしていた私に、大きな示唆を与えてくれた言葉である。
これも、聖霊の働きと考えざるを得ない知らせであった。
実は、恥ずかしいことに、パンセ(瞑想録)の中の「人間は考える葦である」の言葉は知ってはいたが、実際にパンセ(瞑想録)を読んだことは私の数十年にわたる人生中でも一度も無かった。
そこで、図書館で借りて読んで見ると、彼は数学者で合理主義者であるにもかかわらず、敬虔なキリスト教信者であることがわかった。
また、パスカルは、パンセ(瞑想録)の中で、私が疑問に思っていた「イエスの言われる永遠の命」に対する一つの回答を与えていたのである。
キリスト教信者になれば、無限の命と幸福が与えられるというのであれば、我々の死後、無限の命か有限の命かを誰にも確認ができないし、例えそれが有限の命であったとしても失うものは何も無い以上、理性を捨てて、無限の命と幸福を選択すべきではないかと主張するのである。
何事も合理的に考えようとしていた私に、大きな示唆を与えてくれた言葉である。
これも、聖霊の働きと考えざるを得ない知らせであった。








