一粒の種談話室

西洋社会の精神的基盤であるキリスト教と我々日本社会とのつながりや我々日本人が抱く疑問等を論じ合う場を提供

聖霊の息吹:その16:娘の大学受験時の聖霊との出会いその2

2011-06-11 22:09:01 | 生活
娘の大学受験時の聖霊との出会いをもう一つ紹介します。
本命校を含む後期日程の受験大学が、2校残った時のことです。一体、どうなる事やらと、毎日考えながら、最寄り駅から家への帰宅の帰り道、暗い夜道の事ですから、明るいのは月のみです。見上げた真っ暗な夜空に見付けた月は、どういうわけか、半月。この時、私は、2校のうち、1校は合格するのではないかと直観したのでした。
そうして、まさに、娘は本命校の1校に合格出来たのでした。
聖霊は、夜空の月に形を変えて、私に回答を与えてくれていたのでした。
その後は、良く、月を見上げています。

聖霊の息吹:その15:娘の大学受験時の聖霊との出会い

2011-06-11 21:29:32 | 生活

今年1~3月にかけての娘の大学受験時の聖霊との出会いについて紹介します。
大学入試センター試験が終了した頃、娘が全ての受験大学に落ちてしまう恐怖に襲われた時のことです。妻の出身大学も受験の視野に入れようと考え、学校見学に出かけようしたその日の昼、妻が、ベランダで、外に来て、見てごらんと言う。何かと思って、ベランダに出て見てみると、そこには、大きな真昼の満月が出ていたのです。家から駅へ向かう道すがらも、まさに、その方向に、大きな真昼の満月が見えていたのです。
たぶん、これは、何か、良いことがある前触れと考えて、学校見学へ向かったのです。
妻の出身大学を学校見学させていただくと、大変素晴らしい大学で有ることが分かり、この大学を受ければ、良いと考えました。そのように考えると、その後は、心の平安が得られ、落ち着いて、娘への受験支援が出来たのです。
大きな真昼の満月は、まさに聖霊との出会いで有ったと思います。

聖霊の息吹:その14:巡礼の旅における4つの聖霊との出会い

2010-02-07 13:22:13 | 生活

年末年始にかけて、フランスイタリアに巡礼の旅に出た。この巡礼の旅では、4つの聖霊の働きに出会った。

一つ目:旅行に出かける前日、ガムを食べていたら、何か固い物を噛む感じがした。見ると、歯の詰め物が抜けてしまったものらしい。旅行中に、歯の痛みに襲われることを心配して、近所の歯医者に行くも、年末の混雑する時期で、予約が無いので、いつ診察してもらえるかもわからない。旅行の準備もしなければならないので、診察はあきらめ、あとは聖霊の働きに任せることにした。幸いなことに旅行中は、歯の痛みも無く、無事帰国が出来た。

二つ目:ローマでの徒歩で移動中でのこと。ガイドの説明に夢中になり、メモを取りながら移動していた時のこと、たまたま、道路に車止めが出ていて、それに躓いて、道路に前のめりに倒れてしまった。普通なら、石敷きの道路であるから、手足の骨が折れておかしくないところ。旅行も中断かと思いきや、立ち上がってみると、何でもない。デジカメもたまたまリュックに入れておいたので、壊れることはなかった。なぜ、体へのダメージが少なかったと言うと、ローマではスリが多いので、ガイドから、リュックは背中ではなく、前にかけた方が良いというアドバイスをもらって、実行していたため、このリュックが身体を守ってくれたことがあげられる。

三つ目:ローマからアッシジへの移動はバスを利用していた。途中、バスの運転手が、エンジンの冷却水管のゴム管に亀裂が入り、エンジンがヒートアップしそうだという。年始のことでもあり、バスの整備工場も動いていない模様。急遽の一策として、巡礼客の中から、荷物梱包用のガムテープとビニールひもを拠出してもらい、漏れたゴムの冷却水管をガムテープとビニールひもで縛り、近くの町のガソリンスタンドまで行くことになった。皆で、バスが無事動くことを祈った。近くの町のガソリンスタンドで行けたので、冷却水をもらい、補充。さらに、予備の冷却水も貰って、このままアッシジまで高速道路2時間を移動することができてしまったのであった。ロザリオの祈りを皆で祈ったことが聖霊の働きを呼び込んだと考えた。

四つ目:巡礼の私のグループの班長は、関西のある幼稚園の園長先生であった。旅行から帰国して、私は関西への出張がもともと予定されていたので、出張の帰途、その幼稚園の隣りにある教会を訪ねてみた。私が、「教会を見学してもよろしいっでしょうか?」と教会と幼稚園兼用の門のインタホンで尋ねると、その出た相手が幼稚園の園長先生自らが応対に出られたので、幼稚園の園長先生に再開することが出来たのである。出張のセット、出張先、園長先生が在園する確率、園長先生が私のインタホンに出られる確率等を考えると、とても有りそうでないことが有りえたことに、私は聖霊の働きを強く感じたのである。

聖霊の息吹:その13:パスカルのパンセ(瞑想録)との出会い

2009-10-12 18:28:16 | 
娘の大学受検支援のため、とある大学のオープンキャンパスの模擬講義を受講した。この中で、先生は、パスカルパンセ瞑想録)は大変良い本なので、ぜひ一度読むことをお奨めすると受験生である高校生に話した。

実は、恥ずかしいことに、パンセ(瞑想録)の中の「人間は考える葦である」の言葉は知ってはいたが、実際にパンセ(瞑想録)を読んだことは私の数十年にわたる人生中でも一度も無かった。

そこで、図書館で借りて読んで見ると、彼は数学者で合理主義者であるにもかかわらず、敬虔なキリスト教信者であることがわかった。

また、パスカルは、パンセ(瞑想録)の中で、私が疑問に思っていた「イエスの言われる永遠の命」に対する一つの回答を与えていたのである。
キリスト教信者になれば、無限の命と幸福が与えられるというのであれば、我々の死後、無限の命か有限の命かを誰にも確認ができないし、例えそれが有限の命であったとしても失うものは何も無い以上、理性を捨てて、無限の命と幸福を選択すべきではないかと主張するのである。
何事も合理的に考えようとしていた私に、大きな示唆を与えてくれた言葉である。

これも、聖霊の働きと考えざるを得ない知らせであった。

聖霊の息吹:その12:梅村司教様との懇親会出席

2009-10-12 17:03:38 | 
教会で、横浜教区梅村司教様との懇親会があるという。教会委員会の委員が出席できるが私には出席の資格が無い。梅村司教様のお名前は、ミサのたびごとに、司祭からお聞きしているが、実際にまじかでお話を聞く機会は今までには皆無であった。

壮年会のリーダからのMAILで、リーダは懇親会に出席できないという。壮年会幹事からだれか希望者が居れば、代理出席を依頼するMAILであった。
しかし、生憎、私はその週、体調が悪く、MAILをずっと開いていなかったので、MAILが送信されてから幾日も経ってから、この依頼に気がついたのである。既に、希望者は、居るに違いないと私は考えていた。

私は、リーダに、「もし、未だ、希望者が居ないなら、参加したい」とおそるおそるMAILしたのである。

しかし、その後、驚いたことに、リーダからの返事は、「誰からも回答が無かったので、欠席の返事を出した。希望なら、代理出席の回答を出し直す」というものであった。梅村司教様との懇親会に、希望者が誰一人居なかったというのが、全くの不思議であった。

これにも、私には、聖霊の働きというものがあったと考えざるを得ないのである。

聖霊の息吹:その11:母の里帰り

2009-10-12 16:26:17 | 生活
聖霊の働きは、日常生活の中に、とてもたくさん現れることに気が付いた。聖霊の働きは、たぶん、キリスト教信者かそうでないかにかかわらず、現われている。キリスト教信者は、聖霊の働きを信じているので、これに気が付くことが多いが、日常の忙しさにかまけていると、見逃すことも多いのではないか?ましてや、信者で無い方にとっては、聖霊の働きの存在自体を知らないために、聖霊が働いても、これを素通りしてしまうのではないかと思われる。

今日は、母の里帰りにあたって現れた聖霊の働きを伝えたい。
母は、3年前、病に倒れたので、実父の追悼ミサは止む無く延期した。
翌年、母が回復したので、再び実父の追悼ミサを企画したが、再び母は病になり、実父の追悼ミサは止む無く再延期した。
今春、母が回復したので、特急指定席券と実家の近くのホテル宿泊を予約し、母の里帰りを企画したが、またも母の具合が悪くなり、断念した。
母の里帰りは、この時点で、完全に諦めた。

今秋、妻により義父の追悼ミサが企画され、実父と義父の墓はたまたま同じ墓地に立地しているが、私はもはや母の里帰りは完全に諦めていたので、義父の追悼ミサにも出席しないつもりでいた。
ところが、ある晩、いつもはあまり夢を見ない私が義父の夢を見たのである。これは、義父が私に義父の追悼ミサに出席するように要請しているのだと感じた私は、妻に出席を伝えた。この義父の夢は、後で良く考えると、「聖霊の働き」であったと思われるのである。
さらに、義父の追悼ミサに出席するのであれば、3年延期になっていた実父の追悼ミサも母抜きでも実施しようと親戚に伝えた。

ここからが、さらに聖霊の働きと思われるところで、実父の追悼ミサを行うのに、母が出席しないのはおかしいとの話になり、結局母も出席して、無事実父の追悼ミサと同時に、母の里帰りも無事出来たのである。

全ては、義父の夢から始まったことである。義父に感謝したい。

聖霊の息吹:その10:父の腕時計

2009-05-10 19:32:36 | 生活
父が亡くなって6年が経つ。久しぶりに父母の実家に戻ると、居間のテーブルの上に、父の腕時計があった。ケースに入っていて、時計の針は動いていない。たぶん、父が定年退職祝いに会社から腕時計を貰った記憶が私にはあったので、きっとそれだと思った。なぜ、それが今このテーブルの上にあったのかはわからない。
ただ、私は何故か最近は腕時計を持たず、携帯電話の時計で、用を済ませていた。時計を見る時は、いつもポケットから携帯電話を取り出してからでないと、時刻を確認できない不便さがあった。
見つけた父の時計の針が動かないのは、たぶん30年近くも経って、電池が入れ放しで、電池の液漏れにより動かないではないかと思った。しかし、なぜか家に持ち帰り、自宅近くの時計店に持って行った所、電池が入っていないという。
電池を入れてもらうと、腕時計は、30年の時間経過をものともせず、きちんと動き始めたのである。父の腕時計は、私の腕にピッタリとサイズも合致した。この偶然を活かして、父の腕時計を使うことに私は決めた。
私に時計を見つけさせ、その時計を時計店に持ち込ませて、父の時計を私が使えるようにしたのは、正に聖霊の働きだとは思わずにはいられなかった。

聖霊の息吹:その9:希望学との出会い

2009-05-04 07:32:07 | 生活
まさに、聖霊の働きとしか思えない出来事があった。
定年を2年半後に控え、転勤の辞令を受けた。仕事場や家庭の片付けをしながら、今までの人生でやり遂げてきたこと、やり遂げられなかったことが、走馬灯のごとくに頭の中を駆け巡った。想いはあったが、実現できなかったことは山のように多い。そうして、これから、あるいは定年後の自分を思い描くときに、そこには何か確固とした道筋が未だ見つけられていない自分があった。
2009年5月2日の朝日新聞朝刊に、東京大学社会学研究所玄田有史教授の希望学の記事を発見した。
今の日本には、希望が失われているという。日本の自殺者が、先進国トップである理由の一つがわかった気がする。この希望について、研究テーマに取り上げているという。ニートや非正規労働者等、社会的弱者について取り上げるのが、学問の役割だという。
私が50歳でカソリックに受洗したのは、上智大学リーゼン・フーバー教授のキリスト教入門講座にて、カソリックの希望を与える前向きな考え方に感銘を受けたからであった。キリストは、肉体的にも精神的にも社会的弱者の救済を取り上げた。私は宗教が取り上げるとばかり思っていた「希望」について、玄田教授は社会学という学問で取り上げるという。
玄田教授のホームページみ見せていただくと、この中で、一貫して出てくる内容は、「絶望が無ければ、希望も生まれて来ない」というくだりだ。一番問題なのは、絶望の状況にあるのに、その絶望を認識できない、あるいは認識していない状況ということだ。
マザーテレサがインドで死者の家を作ったのは、社会の無関心の中で無くなっていく路上死を迎える人に関心を持って最後の時を見送ってあげることであった。
私の話に戻して、私が私の人生の中でやり遂げようとしたことのほとんどがやり遂げられず、残りの時間も時間読みの時に入り、私の気持ちの中に、あせりやあきらめ、あるいは絶望に近い気持ちすらも生まれて来ていたのは事実である。
しかし、玄田教授の新聞記事の希望学を見て、もう一度私も希望を取り戻そうという気持ちが沸々と沸いて来た。今までの人生の中においても、今の自分には無いもっと大きな希望をいつも頭の中に描いて来たはずだ。それを取り戻そうという気になった。
この記事の発見は、まさに、聖霊の働きではないかと思っている。

聖霊の息吹:その8: 暗証番号

2009-04-18 22:09:10 | 生活
聖霊の息吹を感じる出来事があった。
半年前、通勤定期券を作るため、新たなカードを作る必要性に迫られた。暗証番号はお決まりの番号を決めていたが、なぜか別の番号に決めてしまった。
半年経って、再び定期券の更新が必要になって、はたと困った。定期購入機が、私が入れる暗証番号を受け付けない。定期購入機は、「暗証番号が違います。もう一度やり直して下さい。」と執拗に迫る。あせれば、あせるほど、決めた番号が思い出せない。3回失敗すると、定期購入機は、カードを差し戻してきた。
ここで、ゆっくり考え直すことにした。手帳に、私が作るだろう考えつく限りの暗証番号を全て書き出す。一つ一つつぶして、駄目なら線で消していく。20回ほどトライしたあと、たぶんこれでは絶対ないだろうというあまりにも単純な番号だけが残っていた。
神に祈って、駄目元でインプットすると、定期購入機は、この手帳に残った最後の番号を初めて暗証番号として受け付けたのである。ここまで、約30分の時間を費やしていた。
まさに聖霊の働きとしか感ぜざるを得ない出来事であった。

聖霊の息吹:その7:聖霊はどこから来るか?

2009-02-01 19:38:54 | 生活
日常生活の中で聖霊の働きが多くあることは、かなり確かな事象であることに気がついた。
私は、今までは、聖霊は我々の外部のどこからかやってくるものと考えていた。
聖霊が働いたと思われる事象が起こった時に、やはり信者である母に話すと、それは、単なる偶然に起きた事象ではあるが物事を良い方向に解釈することではないかとの返事をもらった。しかし、私は、やはり聖霊の働きと考えたかった。理由は、聖霊の働きなら神への感謝の気落ちが働くが、偶然の事象では感謝の気落ちが起きないではないか?
最近、私は、茂木健一郎氏の「ひらめき脳」を読んでいて、はたと気がついた。
母の言う「物事を良い方向に考えること」が聖霊が働く動機付けになるのではないかと。また、「物事を良い方向に考えること」が無ければ、例え聖霊が働いてもそれに気がつかないのではないかと。
我々の外側の事象は、神の御手の中に有り、人間が思うがままに操ることはできない。「物事を良い方向に考えること」は、自分の中のことであり、自分がコントロールできる範囲にある。
「物事を良い方向に考えること」の準備ができていなければ、聖霊の働きを見落としてしまう。
したがって、聖霊の働きは、我々が「物事を良い方向に考えること」が、大前提になっている。
キリスト教信者は、イエスにより、が必ず見守っている、助けてくれるという前提があるために、「物事を良い方向に考えること」ができている。だから、聖霊の働きもまた多いのではないかと考えた。
だから、聖霊は、我々の外部のどこからかやってくるものではなく、実は我々の心の内部にこそあったのだと気がついたのである。
これを読んだ方、ご意見いただければありがたい。