安部公房の新刊が出版された。
タイトルになった、『(霊媒の話より)題未定』を含む、生前未発表作品や最近新たに発見された11編からなる短編集である。
もう何年になるのだろうか、彼の「砂の女」を読んだ時、凄い作家が出たとふっ飛ぶほどの衝撃を受けた。
二月最後の日曜の朝日書評に、『(霊媒の話より)題未定安陪公房初期短編集』(新潮社刊)が取り上げられたのを機に、図書館に貸出申込みをしたが未所蔵、珍しくも1週間ほどで購入した旨の連絡を受けた。
ひとことで言えば、「解らん!」ほどの難解さ。
ペトロ に言わせれば、「品のない読み方」と揶揄されるほど速読、多分速く読む方に属すると自分で思っている程度。の私が、何日も掛かっているので、「どうしたの?」と問われたほど私には難解だった。
大学教授らしき書評氏も、“ 〈安部公房〉の〈始まり〉の周辺に書かれ、これまでなかなか読めなかったこの短編群は、学生、教師のそれぞれが、巨大な〈名〉の背後にある〈!?〉な世界を再び・初めて体験する絶好の機会を提供してくれる ” と評していたが、読後、上手く表現するなと思ったほど。
“ ――早くもつきがまどかな黄色い光を、やさしい愛情を一杯こめて、其のごみごみした港町の灰色の屋根と大きな船の胴腹と、眠たげな黒ずんだ大きな川とから吐き出された塵芥を浮かべた、油のようにどろどろした青黒い海の上とにのばして居た ” (『題未定』)の風景描写ひとつとってしても、想像を喚起させるものの、書評にある〈!?〉な世界だ。
また、所載の『虚妄』の女性が、「砂の女」の下敷きになっているように思った。
彼は人間の深層心理だけでなく、すべての存在を無とする存在自体が存在しないのだと言い、見えるもの、現象を誰もが信じるし存在を疑わないが、見えているという現象に惑わされているのではないか? 人間の持つ拘りが幻さえも存在するものと見せる。
重層さと変幻は作家十九歳にしてしっかりと顕れているが、古希になろうとする身には残念ながら思考回路も油切れ、若い頃に感じた彼の凄さに従いていけないことを認識させられたということのようだ。
と、いう訳で、Sさんからの「蕗の薹」、開いたのをしみじみ見たのは初めて。と、Nさんからの「椿」を飾って、暫し心の休息をした、やれやれ。()
Peter & Catherine’s Travel. Tour No.591