遅れてきた愚者の野暮な一言

企業で海外を担当した後、病院に転身。そこではじめて(?)社会や人について考えるようになった愚か者の言わずもがなの雑記帳。

医療における結果無価値と行為無価値

2009-10-02 21:04:44 | 医療
『和田秀樹オフィシャルブログ「テレビで言えないホントの話」』の2009年10月1日付け記事「重過失と軽過失」(http://ameblo.jp/wadahideki/entry-10354510919.html)を読んだところ、前職(医療機関に勤務)時代にリスク管理委員会の席上で問題提起した内容に近いことが記されていた。(お手数ながら、和田氏の意見の全文はご本人のブログでご確認ください)

和田氏の尊敬する弁護士との話の中で《欧米では刑事罰を課すことはないが、日本では医療ミスで刑事罰を課されたり、逮捕されたりするから産婦人科を中心に医療崩壊が起こった。ところが、マスコミが同情的な報道をすることや現実に医療崩壊が起こっていることで、裁判で無罪になるにあたって「医療ミスはなかった」という判決がでるために、今度は民事責任が追求できなくなっているという話をしたところ、「重過失と軽過失という判断にわける立法ができないのか」という意見を頂戴した。結果的に人が死んだかどうかで過失が重度か軽度かを判断するのでなく、過失の故意性で重過失か軽過失かを決める》というものである。

多くの方がご存知のように、医療機関においては「ヒヤリハット報告」など、インシデント(アクシデントにならず未然に防ぐことができたが、場合によってはアクシデントになる恐れのあった事象)やアクシデントについての報告(IA報告)がなされている。 そして、これらのIA報告は、患者の蒙った被害の程度に応じてランク付けされているのだが、過失の程度は考慮されていないことが多いのだ。

そこで私としては、IA報告の目的を考えたとき、IA報告から学んだことを業務改善に活かし、リスク事象を繰り返さないようにするためには、患者の蒙った被害と同時に、過失の程度の評価をしなければならないのではないか、と考えたのだ。

業務改善の視点からは、もし何らかのトラブルがあったとき、まずその状況、経緯を確認することになる。その結果何らかの過失(あるいは未然に防いだ過失の可能性)があったとき、IA報告を行い、今後の業務改善につなげて行くことになる。

同時に、医療機関においても何らかのトラブルがあった際には情報開示が必須となっている現在においては、そのトラブルについての責任の有無と程度(これが過失の程度となる)を検討・把握することが必要となる。こうした作業をできるだけ速やかに行なわなければ、トラブルの当事者に対する適切な説明ができないのである。

また、この過失と責任の程度を把握する過程で、自院の現状と限界、一般的な要求レベルとの比較などが行なわれることになるのである。

しかし、先にも記したようにIA報告においては、こうした過失の程度という視点はほとんどない。このため、リスク管理委員会において、今後IA報告にこの視点を含めることを検討することを提案したのである。

そして、リスク管理委員会で様々な病院におけるIA報告について情報収集を行なったが、結果的にそうした観点を持ち込んでいるところはないということだった。(当然、情報収集からもれただけで、そうした取り組みをしているところはあると思う)このため、本提案は継続検討事項となったのだが、その後どうなったのであろうか。

さて、話を戻すと今回の和田氏のブログは、医師の保護と同時に被害者の保護のためには、重過失と軽過失という判断を分ける立法が必要というものである。

ところで、実は少なからぬ医療者には、もともと過失の程度や刑法上の罪の概念があまり理解されていないのではないかと思うのだ。

というのは、ほとんどの医療者は「患者のためにできるだけのことをしてあげたい」という善意からスタートしているためである。つまり、雑駁に言えば、こうした医療者は法律用語でいう「行為無価値(注1)」の世界に生きているのである。そして、医療とは元々そういうものだったのだ。

一方、現代日本の法体系は「結果無価値(注2)」で構築されている(注3)。

しばしば、医療は法律(特に刑法)となじみが悪いと聞く。 それは「行為無価値」の世界である医療に、「結果無価値」の法律を当てはめるためではないだろうか。

果たしてどれだけの人が、医療に結果無価値の価値観を持ち込んで欲しいのだろう。例えば、自分の愛する家族が病気になり、成功率のきわめて低い治療法しか回復の希望がない場合、多くの人はその治療法にかけてみたいと思うのではないだろうか。そして、それを求めることを合理的でないとして排除する人はないであろう。しかし、極論かもしれないが、結果無価値の価値観とは、結果的に意味のない行為をした責任を問うものなのだ。この価値観の下では、一縷の回復の可能性にかける積極的医療に取組むことは難しいのではないだろうか。

法律はその国の多数の価値観を反映し、明文化したものであるはずである。はたして、国民は医療にどちらの価値観を求めるのであろうか。

なお、本論については「結果無価値」、「行為無価値」という法律用語を用いているが、厳密な理解・用法によるものでないことを了承願いたい。


(注1)結果によってではなく狭義の行為によって規定される無価値を行為無価値又は行為反価値という(『Wikipedia』「行為無価値」から抜粋)
(注2)刑法学の用語で、狭義の行為(Handlung)によってではなく、行為の結果によって規定される無価値をいう。結果反価値ともいう。(『Wikipedia』「結果無価値」から抜粋)
(注3)日本の刑法を「結果無価値」と「行為無価値」のどちらで解釈するかという議論が法学の世界であったが、現状「結果無価値」が優勢のようだ。