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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (1)

2013年11月17日 | お日様とお月様の光と影
 1854年7月夏、イギリス・フランス・オスマントルコ同盟国と帝政ロシアとのクリミヤ戦争は(1853-1856年)19世紀初頭に西洋列強諸国が定めた国際秩序であるウィーン体制を崩壊させました。この後は自由貿易を各国に求める自由主義がイギリスを中心に台頭していゆきます。
 清は列強諸国よる植民地化が進み清国内は清朝権威失墜による太平天国の乱(1850年~1864年)がつづいていました。さらに捻軍の反乱(1853年 ~ 1868年)が起き民衆のテロや暴動が頻発しもはや清は国家の体を成してはいませんでした。(現在の中国にそっくりな状況) 
 大陸は民衆の蜂起が繰り返し起き歴代王朝の栄枯盛衰が繰り返されて来ました。いずれ中国も歴代王朝と同様な道を辿るでしょう。
 また朝鮮半島はこの国際情勢に驚愕し半島に閉じ籠っている。朝鮮半島が世界史デビューするのはまだまだ先の事で西洋列強諸国によって日本と同様に半島より引きずり出されます。
  そして日本は開国ました。幕府の安部正弘政権(徳川家定政権)は脆弱ながらも国家の近代化に着手し始めました。しかし安部正弘の幕政近代化改革(安政の改革)がこのまますんなりと推進していかないのが政治なのです。
 この章では1856年8月21日アメリカ合衆国の初代駐日領事タウンゼント・ハリスが日本に着任するまでの幕府と西洋列強諸国との外交攻防そして内政攻防を描き出します。 


  さて江戸水戸藩邸中屋敷では慶喜の斉昭宛ての手紙には「将軍継承に関心が無い」と書かれていて斉昭の勘気に触れました。斉昭は幕府閣僚の安部正弘と有力譜代大名の越前福井藩主 松平春嶽、伊予宇和島藩主 伊達宗城また有力外様大名薩摩藩主 島津斉彬、土佐藩主 山内容堂などと次期将軍擁立ネットワーク「一ツ橋派」を形成し頻繁に連絡を取り合っていました。
 そして斉昭の姉清子(きよこ)の嫁ぎ先である関白(かんぱく・天皇の代わりに政治を行う公家の役職)鷹司 政通(たかつかさ まさみち)に働きかけ次期将軍擁立に慶喜を推していて斉昭は朝廷工作も行っていました。吉子は将軍継承政争に慶喜が巻き込まれていることを心配していました。

  慶喜がまだ七朗麿と呼ばれていた子どもの頃に斉昭は七朗麿を江戸で育てるより水戸で教育を受けさせた。母吉子と慶喜とは別れて生活したので親子共に理解できないまま年月が流れました。そして慶喜が一橋家に養子が決まって親子が再会した時にお互いに溝の様なものを感じた事に吉子は悲しんだ。それから吉子は親子に存在する溝の様なものをうずめる様に一橋邸を度々訪ねる様になりました。
 

 吉子は斉昭にこう訴えた

「慶喜の意思も問わず勝手に将軍継承候補に推すのは
慶喜にとって理不尽です!!」

  斉昭は「…」
 斉昭は反論は出来ませんでした。斉昭はこの「しかっり者の女房吉子」には頭が上がらないのです。いつの時代も女房が強くなければならない様です。

 慶喜の斉昭宛ての手紙が斉昭の勘気に触れたことはその日内に一橋邸に伝わりました。慶喜は自室で趣味の刺繍を楽しんでいた。慶喜は多趣味な人で刺繍・墨絵・三味線などに熱中していました。これは母吉子の影響で母と子は芸事で繋がっていました。
 慶喜の側近である原市之進が「なぜそのような手紙を出したか?」と慶喜に問い質していました。慶喜は刺繍に夢中で原の話を聞いてはいませんでした。慶喜は昨年春に公家の一条美賀子(いちじょう みかこ)と婚約し来年秋に結納し年末に結婚を予定しいました。

 すると女中のお須賀(すが)が「夕食の支度ができました」と慶喜に伝えた。お須賀は一橋家の奥向きの仕事を取り仕切る女中頭で慶喜より一歳年下でした。
 居間で徳信院(とくしんいん)一橋直子(つねこ)と慶喜とはいつも一緒に食事をします。伏見宮家の直子は一橋家の前当主慶壽(よしひさ)の正室となりました。がしかし夫慶壽は若くして亡くなりました。一橋家当主が亡くなったので慶喜を養子に迎えたのです。直子と慶喜とは家系上は義理祖母となります。
 しかし直子と慶喜は年は七歳しか離れていません。二人の関係は「頼りがいのあるお姉さま」と「年下のかわいいおぼちゃん」という感じでしょうか。

 お膳には鮭料理が並んでいました。
  直子  「斉昭公より鮭を頂いたお須賀、家中の者にの取分けたか?」
  お須賀 「はい」 
  慶喜  「直子様、予が父上にお礼状を書きましょう」   

 一橋家は「将軍の家族」という身分なので家臣はいません。ですから一橋家の重役は幕府や水戸藩からの出向で構成されていました。直子は慶喜が将軍継承政争に巻き込まれていることに吉子と同様に心配していました。
 この頃の慶喜はこの様な日々を過ごしていました。


 さて密航の罪で江戸伝場町の獄に投獄された吉田寅二郎と金子 重之輔はあれからどうなったのか?象山書院の佐久間象山は幕府に連座責任を問われ伝馬町の獄に投獄されました。
 江戸長州藩邸上屋敷では謹慎している杉民治が高杉小忠太に呼び出されました。そして控えの間に高杉小忠太と桂小五郎( かつら こごろう 後 木戸 孝允 きど たかよし)が入って来ました。

 「杉喜べ!幕閣の安部正弘殿が寅二郎の処刑に反対してくださったぞ!」

 
 藩主毛利敬親が吉田寅二郎を救うべく幕府に働きかけたことを高杉小忠太は杉に伝えた。杉は涙を流して喜んだ。また「金子 重之輔」なる者は藩庁(現山口県萩市)の調べよれば長州阿武郡(山口県阿武郡)の染物屋商人の息子らしいことが分かった。金子 重之輔も死刑は免れたが商人の身分では寅二郎と同じ扱いはできないというのが高杉小忠太と藩庁の判断だった。
 しかし懸念は「江戸伝場町の獄」は死刑囚や極悪人が投獄されていてまた衛生環境も劣悪で寅二郎が無事で生きているかが気になっていました
 もし長州藩の役人が伝場町の獄へ行き寅二郎の安否確認を行えば幕府が機嫌を損ねるかもしれないと高杉は言う。そこで桂がその役を買って出たのでした。桂はこの頃は江戸遊学中でかつて長州藩校明倫館で吉田寅二郎の兵学を学び二人は子弟関係にあったのです。


 1854年7月9日昼すぎ、伊賀上野(現三重県伊賀上野市)で地震が起きました。世に言う「伊賀上野地震」です。この地震は予兆でありこの後「安政の大地震」が頻発します。



   つづく


(注意)このコラムは西暦で統一しています。「安政」とは当時の日本固有の年号です。



  お日様とお月様の光と影 ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~  
  第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

           プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
           第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防


   ≪参考文献≫ 
   知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
   江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫 より
   幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
   歴史読本 徳川慶喜をめぐる女たち 1998年10号  新人物往来社

   1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
   1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
   2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
   2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

   文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
   文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
  文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
     


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