フィリピンーマコのお話箱

フィリピンでの日常と、その中でふと私が思ったことを
お伝えします。ときどき開いてみてください。

プゴ訪問

2017-07-05 09:09:09 | 日記

(プゴはほとんどが農業です)


 先週、私は同僚のオデットといっしょに、北部ルソン、ラ・ウニオン州にある人口2万人足らずの小さな町、プゴへ行ってきました。以前はマニラから車で8時間かかりましたが、最近は新しい高速道路ができたため、公共のバスで途中15分間の休憩2回を含めても、5時間で行けました。

 プゴとは鳥のウズラのことで、その昔、スペイン人の猟師が狩りに来た時にたくさんウズラがいたことから、その地域を「プゴ」と呼ぶようになったそうです。1887年にバランガイ(最小行政区)になったプゴは、1912年からは町に昇格し、現在は14のバランガイによって構成されています。

 1906年にプゴへやって来たベルギー人の宣教師たち(スクート会)は、プゴの人たちのために教会(聖家族教会)と学校(プゴ・カトリックスクール)を建てました。
 
(現在の教会とプゴカトリックスクール)

 ところが第2次世界大戦中、日本軍の爆撃によって学校は崩壊し、その後再建された木造校舎は戦後50年も経つと老朽化が著しく、生徒たちは校庭のアカシアの木(写真)の下で授業を受けている状態でした。


 生徒たちが安心して勉強できるよう校舎改築のための寄付を探し求めていた当時の校長シスター・ステラは、日本人で奨学制度に関わっている西本神父のことを人づてに聞くと、マニラに行き、彼の事務所を訪ねました。
 神父はシスターの話を聞いてすぐに、知人のカトリック修道女・渡辺和子シスターに連絡しました。すると、当時渡辺シスターが理事を務めておられた日本の「PHP思いやり運動」から、校舎改築のための寄付が届いたのです。2001年のことでした。

 そして、翌年2002年に新校舎が完成しました(写真)が、PHPとの関係は校舎改築で終わらず、さらに同校に通う貧しい生徒たちへの奨学支援という形で今でも続いています。




 説明が長くなりましたが、今回私たちは、PHPからの支援を受けている奨学生たちの視察のためにプゴへ行ったのです。
 その日は地元の司教の葬儀で学校はお休みになったため、担当のジャッキー先生は、奨学生たちの家々や、卒業して今はもう働いている元奨学生たちに会いにその職場へ案内してくれましたが、途中あちらこちら、辻々で、奨学生たちやその家族に出会えたので驚きました。(写真)

   

(写真中央はアナリサ、サラマッポ会の元奨学生で今は町役場で働いています)


(案内してくれたジャッキー先生(右)とマルー先生)

 それもそのはず、ここプゴでは、2002年以来、PHPでは現在に至るまで726名、また当オフィスが窓口の他の奨学支援運動サラマッポ会では2015年の終了までに171名の生徒たちを支援しており、単純計算するとプゴの3世帯に1世帯がどちらかの恩恵に与ったということになるからです。
 今回会えたPHPの卒業生の内、4人は公立校の教師として働いていましたが(写真)、例えばプゴ・カトリックスクールのベテラン教師の月給が7,000ペソ(約1万6千円)に対し、彼らの公立校での月給はなんと22,000ペソなのだそうです!

   

 奨学支援が始まった当初、プゴは行政区の税収入が最低のレベル6でした。ところが、15年後の現在、レベルが一つ上がって最低から2番目のレベル5になっています。この向上には、微力ながらも日本からの奨学支援の草の根的貢献も影響しているのではないかな?と思いました。

 余談ですが、今回プゴでは朝、昼、晩と三食とも、ジャッキー先生のお宅でいただきました。そこでは、ジャッキー先生のご両親、そしてその孫たちで賑やかな田舎の大家族の様子を垣間見ることができました。


(ジャッキー先生と両親)

 
 
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