雑記帳

日々の徒然をとにかく書き込んでおきます

5月2日ハイデルベルク観光

2008-05-18 10:12:10 | 旅行
ドイツの街を旅すると、必ずといっていいほど三十年戦争(1618~1648年)とその街との関わりが出てくる。
ドイツ国内でのカトリックとプロテスタントとの抗争に端を発し、フランスとスウェーデンの介入を招き、結果としてドイツ全土が荒廃した戦争である。一説ではドイツの人口が2/3に減少したという。

ハイデルベルクは三十年戦争時、プロテスタント側にたち、なおかつカルヴァン派という最も過激な改革派に与したため、三十年戦争では戦闘の渦中に巻き込まれた。堅固そうに見えたハイデルベルク城はあっというまに陥落する。カトリックの手に落ちたかと思うとスウェーデン王グスタフ・アドルフが取り返し、またカトリックに攻め返される。
さらに三十年戦争後も、プファルツ継承戦争でフランス王ルイ14世の介入を招き、ハイデルベルクは徹底的に破壊された。

ハイデルベルクではRomantic-Hotel Zum Ritter St.Georgというホテルに宿泊している。聖霊教会の真横に位置する立地であり、《街物語 ドイツ》では「広場の一角にツーム・リッターというホテルがある。騎士の館といった意味だ。ざっと400年前に刻まれた見事なファサードを持つ。1693年のフランス軍による破壊から逃れた唯一の建物でもある。」と紹介されている。そんな由緒あるホテルとは知らずに指名したのであるが。
  
         ホテル正面
  
ホテル玄関          ホテル1階
  
      ホテルレストラン
たしかに、ホテル正面は周囲とは全く異なる品格を漂わせている。よくこのような建物が戦火を逃れて生き残ったものだ。

上の右の写真のレストランで朝食を取る。
このホテル1日目の朝食では、レストランに日本人客が多かった。二人一組で食事しているが、話の様子からすると同じツアーのメンバーが多いようだ。レストランは窓から遠く暗い部屋(左上写真)と、窓際の明るい部屋(右上写真)とがある。日本人は皆暗い部屋で食事していた。我々は明るい部屋の窓際の席に案内された。こちらの部屋には西洋人客が多かった。

朝食を済ますと、市内観光に出かける。
まず、家族へのお土産の切手を購入するために郵便局に向かう。ホテルのフロントで聞くと、郵便局は大学広場にあるという。

大学広場の郵便局は、普通の建物の中の小さな郵便局だった。
欲しいのは記念切手だ。窓口であれこれ説明した結果、「ああ、コレクションね」といった感じでやっと通じた。

大学広場の近辺から、ガイドブックに沿ってポイントを見て回る。
最初は学生牢だ。その昔、ハイデルベルク大学の自治の建前から、不法行為を行った学生は大学法で裁かれた。そのための牢であるが、この牢に入るのは、学生にとっては通過儀礼であり、同時に勲章であった、とガイドブックにある。
  

  
       学生牢の壁面の落書き
画面いっぱいの落書きは、ガイドブックによると、自分の所属する学生団の掲げる理想や旗、それに自分の罪状とこの牢屋での滞在期間を、学生たちが記したものだという。
右下の写真には日本人の名前が落書きされている。添田幹人さん、有馬さん、坪井さん、どうしてこんな落書きをしてしまったのだろうか。

  
       イエズス会教会
ハイデルベルクは三十年戦争時はプロテスタント側であったが、いったんこの街が叩き潰された後の1759年にイエズス会教会は完成したそうだ。
  
       聖霊教会
大学広場から東へ、泊まっているホテルのそばまで歩くと、マルクト広場の西に聖霊教会がある。普通、教会の広場に面する側が正面だが、この教会は逆だ。広場と反対の側に正面がある。従って、正面の全景を写真にとることができない。左上写真のように後ろ姿が撮れるだけだ。
聖霊教会の中では、ちょうどパイプオルガンの演奏会らしき集まりが開かれていた。

さて、ハイデルベルク城に登る。
予定では、体力温存のためにケーブルカーに乗るつもりだった。しかしケーブルカーの乗り口に気づかず、歩いて登る羽目になった。
  
坂を登り切り、入場券を購入して入り口から入ると、正面がフリートリッヒ館(左上写真)だ。振り返ると入り口が見える(右上写真)。フリートリッヒ館の地下には、世界最大のワイン樽がある。22万リットルという。写真を撮ろうとしたら突然メモリーオーバーとなり、写真はない。

フリートリッヒ館の右側がオットハインリヒ館で、そこから反対側を見たのが上の写真だ。オットハインリヒ館には薬事博物館がある。家内とともに興味深く見て回った。
  
     城から見たハイデルベルクの街
城の見晴台からは、ハイデルベルクの街とネッカー川を遠望できる。左上の写真には、左にイエズス会教会、右に聖霊教会が見える。右上の写真は、聖霊教会とネッカー川にかかるカール・テオドール橋が見える。

この見晴台を経て道を下り、ハウプト通りのみやげもの屋などをひやかし、ハーゲンダッツの店でソフトクリームを購入して一度ホテルへ戻った。本日は、昼食をホテルでの自炊とする。

昼食の後、ネッカー川のカール・テオドール橋に出た。
  
市庁舎前広場から         カール・テオドール橋から
  
ブリュッケ門        カール・テオドール橋
カール・テオドール橋の手前側半分は残念ながら工事中で足場がかかっている。そのため、橋の全景写真を撮ることができなかった。ブリュッケ門は、カール・テオドール橋をわたってハイデルベルクに入る位置に建っている。

観光コースとしては、カール・テオドール橋を渡った向こう側の山を登ると、哲学者の道があるという。しかし体力の余力がない。今回は行かないことにした。といっても次回の予定はないのだが。

この旅行では、夕食は基本的にホテルの部屋で軽食で済ますことにしている。持参のポットで湯を沸かし、同じく持参のチキンラーメン、即席粥などをいただく。地元のマーケットで購入したフルーツやヨーグルトを添える。
このハイデルベルクの一日に限っては、昼食を自炊とした上でホテルのレストランで夕食をいただくことにした。朝、フロントで予約をしておいた。
メニューを見る。あるページに並ぶ料理の名称には、すべて「アスパラガス」の文字が入っている。一体何ごとだろう。わけが分からない。
われわれは、肉では量が多すぎると懸念し、魚料理を頼んだ。
飲み物は白ワインだ。ウェイターの勧めに従ってグラスワインを注文した。下の写真の容器に入って運ばれてきた。

  グラスワイン
ガイドブックによると、ドイツはブドウ栽培の北限であるため、赤ワイン用のブドウが育たず、ほとんどが白ワインだという。

ところで別の本によると、ドイツのワインの産地は、その昔のローマ帝国の版図であった土地であるという。
ローマ帝国の時代、ローマ帝国とゲルマーニアの境界はライン河とドナウ川であった。ライン川とドナウ川を結ぶ線にはリメス-ゲルマニクスという防衛線が敷かれていた。現在のドイツワインとして知られているラインワイン、モーゼルワイン、フランケンワインは、いずれもそのローマ帝国領内だというのだ。

メインディッシュは、皿全体を覆う大きな半球状の金属の蓋が載せられ、テーブルに運ばれてくる。われわれの魚料理もそうだった。
隣の席に同じように半球状の蓋をかぶせたメインディッシュが運ばれてきた。そしてウェイターが蓋を取ったところ、その皿に載っていたのは白アスパラガスだった。白アスパラガスが何本か、皿に載っている。ただそれだけである。これにはあきれてしまった。
われわれはそのときまで、ドイツの春と白アスパラガスの関係など何も知らなかったのだ。この件はまたいずれ触れる。

戻る                            続く
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ライン下り(2) | トップ | 5月3日ハイデルベルクから... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行」カテゴリの最新記事