
父の日だからもう2ヶ月半になる。なにがいい?と娘に聞かれて考え込んだ。さて欲しいものといっても予算もある。あまり高いのもね、可哀想だしといってほんとに欲しいものがいい。できれば娘のプレゼントだとはっきりわかるものを。やはりCDか!
平河綾香のODYSSEYがそうだったか。僕のBIRTHDAYか父の日。数年前になる。娘の引越し荷物を車に積んで借りたアパートに行く途中でラジオから聞こえてきたjupiterにぞくっとした。AYAKAのデビューに遭遇したのだ。この曲を超えるのは彼女にとって至難だが、ともかくまだ学生で初々しかった。娘はjupiterをよく知っていて`ふ―ん`といって日をおいて持ってきてくれた。今度もまたCDかとも思ったが僕には思惑があったのだ。
僕のJAZZの師匠?TAROさんのブログで、「インプロビゼーション」という言葉に出会った。即興とかアドリブというと身も蓋もないような気がするが、インプロビゼーションの語感がいいのだ。ぼくの心の奥深くにインプロビゼーションという言葉が宿った。好奇心がうずきだす。
建築史家鈴木博之さんが28年前に書いた「マイナーなブルースよりも」というエッセイ風の論文がある。シビアな建築論でもあるのだが、こんな一節がある。
『私はひところジャズが好きでよく聴いた。勿論そうはならなかったが、一時は、なれるものならジャズ評論家になってもよかった』そしてジャズと建築とのかかわりかたとの間には、かすかに関係がある、と書く。
僕がジャズにのめりこむのも、何処かに建築との関わりがあると感じるからだ。時代考察とかなのだが・・・
『60年代ごろのジャズの典型的な演奏法はつぎのようなものであった。まずテーマが演奏される。それが終わると各奏者がソロをとりながらインプロビゼーションを行う。各奏者がそうしたソロを行って、最後にフォー・バースの掛け合いなどが行われてから再びテーマの演奏があって一曲終了する。したがって、ジャズでは即興演奏が大だとは言うものの、聴いているほうは常にテーマとの関連において各奏者の演奏を楽しむのである。テーマのフレーズがありコード進行があることによって、インプロビゼーションの楽しみが生ずるのである』
そして鈴木さん(現在東大大学院教授)は、`建築の細部の楽しみも、全体のテーマとの関連によっていっそう大きくなる`と、建築に触れていく。卓越した指摘だ。
60年代だ。僕がJAZZに出会ったのも。
入り浸った銀座のライブハウス`ジャンク`。菊池雅史や日野皓正もそうだったが、ジャズ演奏の組み立て方は正しくその通りだったし、今でも基本はそうだろう。そのインプロビゼーション、クラシックだとカデンツアか。しかしカデンツアは作曲して譜面に残すのだ。クラシックには純なインプロビゼーションがない。
僕がキース・ジャレットのソロに捉われるのは、2002年に大阪と東京で行われたソロのライブ録音「レディアンス」を聴いて震撼とし、そのライナーノートを読んだからだ。このライブ録音は、僕が喜びそうだと思って娘が買ってきてくれたのだが、もしかしたら僕の音楽観が変わる出来事だったかもしれない。
キースは書く。多くの人は、『(この)演奏の始めの部分にメロディの要素が一それどころかモチーフとなる要素さえもが一欠落していることに一瞬戸惑うかもしれない。出てくる音に、動機となるコンセプトの存在がまったく感じられないからだ』『私は自分の両手(特に左手)に、何をすべきかを指示してもらおうと思っていた』これはスタート時のフリー演奏と、和声進行という調性による究極の叙情性をも含めての論述なので驚かざるを得ない。
更にそれに続くキースの言葉に眼を見開かされる思いがした。それは試そうとした方法論の一つで、何かが新しいものに変換される瞬間というのはめったに訪れない、というのだ。
そういうものだ。創造というのは。
つまりインプロビゼーションによって`音楽・ジャズ`にトライし、しかし、そして・・・コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んでいったことに気がついたときキース自身がショックを受けたという。キースは自分のソロ演奏をそう捉えている。
キースのソロを考えたいと思った。
そして図書館でSWING Journal2006年6月号に出会う。「ジャズ超名盤研究29」は、ジャズと即興を一般音楽フアンまで広めた永遠のベストセラー「ザ・ケルンコンサート」。
これは聴かなくてはいけない。娘に探してもらう。そしてあまりな美しさ、純な音に眼がかすんでくる。
それが全てインプロビゼーションだというのだ。言い方は好ましくないかもしれないが、ピアノに向い創造の神に委ねて音を紡ぎ出す。
このケルンのコンサートは1975年、そして「レディアンス」が生み出されるまで27年を経た。時を経て『(インプロビゼーションによる)コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んだ』ことにキースはふと気がつく。
ジャズを超えてしまったかもしれないし、それがジャズの真髄なのかも知れないのだ。そして27年間の数多くのソロコンサート、この長い年月による模索、『新しいものに変換される瞬間というのはめったに訪れない』とは言うものの、そのいずれもが僕たちを魅せる。これは凄い。そして思う。この音楽を生みだす人間ってなんて素晴らしいのだ。
キースはこのインプロビゼーションによって生み出したオリジナルを、他で演奏したことがない。トリオではどのような響きになるのだろうと好奇心が湧いてくるが、僕たちにはCDがある。繰り返し聴きながら、一回性のインプロビゼーション(ライブ)と録音の整合性をどう捉えれば好いのかと考え込んでしまう。
そして、
キースのソロのインプロビゼーションは、60年代の形式、ジャズの基本形の「テーマとの関連において生まれるインプロビゼーション」とは一線を画すのではないかと思いはじめる。創造の原点自体を考えさせられてもしまうのだ。提示されたテーマのインプロビゼーション展開ではなく、インプロビゼーション自体が創造・音楽なのだから。
では建築世界は?
録音されているキースのソロを全部聴きたいと思った。
そして僕の今年の父の日の娘からのプレゼントはCD「FACINGYOU」にした。この演奏は、1971年マイルスのグループでのヨーロッパツアー中に、オスロのスタジオで始めてソロに挑んだ記念碑だ。全てが即興ではないが、当時のマイルスはエレキにトライしており、キースにとってアコーステック・ピアノの演奏は渇きを癒すものだったに違いないという。ここからスタートしたのだ。
このあと、日本版は絶版だというclavichordによる「BOOK OF WAY」や、オルガンを弾いた「SPHERES]という妙な録音版も手に入れた。
まあそれはともかく父の日の娘からの「FACINGYOU」には、「お母さんといつまでも仲良くね!!」そして「ジャズも良いけど、たまにはROCKも聴いてみてちょ。」と言うメッセージが、娘のシンボル、笑っている大好きな蛙と共に描いてある。











TBありがとうございます。
こちらにコメントさせていただくのはずいぶん久しぶりになりますね。
僕はこの「レディアンス」は聴いていないので、ちょっとコメントが的を得ているかわからないのですが、penkouさんの文面だけから感じることを・・・・・
>コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んでいったこと
何気ない即興で散漫に弾き募ったコンサートが、実は綿密な構成美をもっていた、これこそKeithが音楽の歴史によって積み上げられた「方法論」に、骨の髄まで依拠しているということではないでしょうか。
というより、調性があるから個々の音が意味を持ち(これは和音だったりフレーズだったり)、展開があるから個々のフレーズが意味を持ち(これはメロディですね)、構成があるからそれぞれの展開が意味を持つ(これは曲でしょう)。
そしてひとつのステージにも何某かの展開を持たせるというコンセプトは、クラシックで言う組曲、また、Milesの後期のステージにも見られます。
即興で弾いていて意図していないにも関わらず、確立された様式を踏襲してしまったものが結果として現れた・・・・・いや、これは僕がKeithの創造性を否定しているとかではなく、Keithのソロの試みはながーい音楽の歴史の積み重ねの中で、ひとつの支流の突端というか、「あるノウハウを突き詰めたひとつのあり方」を提示しているということなのではないか、ということです。
>キースのソロのインプロビゼーションは、〜
>〜「テーマとの関連において生まれるインプロビゼーション」とは一線を画すのではないか
これは今回TBとコメントを頂いた記事の返信にも書いたのですが、では「インプロヴィゼーションによる演奏」によって紡ぎ出された音楽と、「作曲された曲が演奏された音楽」と、創造性という点でどこに違いがあるのか・・・・・そこら辺ですよね?。
僕は、実はまったく違いはないのではないかと思っています。
音楽がひとつの音楽として固定されるのは「音が出されたその瞬間」であって、瞬間の即興演奏でも時間を書けた作曲でも、どちらにしても音楽には「その瞬間」しか存在しないわけです。
演り手にとっても、聴き手にとっても、ですね。
だからこそ、「その瞬間にすべてが決定される」からこそ、音楽はある種の緊張感、意外性、そして新鮮さを常に持っているものだと、そんなふうに思っています。
って、我々人間の知性が、常に時間の経過に縛られたものでしかありえない以上、実はこれはどんな芸術でも同じなんですけどね。
>ケルン
Keithの数々のソロ作品の数々と比べても、これはやっぱり名盤だと思います。
休んでいるフレーズや、垂れ流しになっているフレーズがほとんどなく、常に新鮮なフレーズを奏で続けている・・・・・無駄肉をそぎ落としたインプロヴィゼーションという感じです。
ここまで無駄のない即興演奏というのは、ちょっとジャズ全体を見渡しても稀有ですよね。
多くの人に支持される盤というのは、やはりそれだけのことはあるんですね。
レディアンス、是非聴いてみたいと思います。
ではでは。
なんでも建築と結び付けてしまうのは、どうも僕たちの癖(悪い?良い?どちらともいえない?)ですね。
TAROさん
テーマがちょっと大きいので考えてから書いてみます。納得したり、はて!と考え込んだりしてますので・・・・
おっしゃるようにKeithがふと書いてしまった?「音楽の歴史によって積み上げられた「方法論」に、骨の髄まで依拠している』つまり意識しようとしまいと長い積み重ね(研鑽といっていいのかもしれないし人生で培ってきたこと)があって生み出したものが、音楽の方法論に依存していた(ことに気がついた、こんなことを書いてしまうキースは純ですね)。やはり音楽家なのですね。
TAROさんに言われる「その瞬間」。これには全くそうだと確信しました。だから五感を研ぎ澄まして聴く、そうですよね。
ライブを聴く。録音されたものを聴く。聴くほうにとってその一瞬、そのときが大切だということ。うーん、うなずける。
とはいえ、ピアノの前に座ってから湧き出すものを紡ぎだすという行為、キースのソロのインプロビゼーションを考えるに、ライブの価値が臨場感だけとは思えないのです。このキースのこの行為は創造へのトライだという気がするので。
うまく書けないなあ・・・なに言っているかわからなくなった。
本日、レディアンスを購入してまいりました。
今までのpenkouさんとの話の経緯から、かなり期待しております。
寝る前にグラスを傾けながら堪能したいと思います。
気が向いたらレディアンスについて何か書きますね。
ではでは。
なんだか責任を感じてしまいますが、レディアンスをお聴きになっていかがでしたか。僕は繰り返ししみじみと聴いています。