HOUSE MUSIC

大好きなハウスミュージックのことや、
最近のお気に入り、今日聴いた音楽のことなど、徒然に書いていきます。

Inner City

2011年09月01日 | Weblog
Inner City - Watcha Gonna Do With My Lovin

デトロイト・ゲットーから世界のダンス・ミュージック・シーンを揺るがした偉才、ケヴィン・サンダーソン――ホアン・アトキンス、デリック・メイと並ぶオリジネイターである彼が、88年にシカゴの女性ヴォーカリスト、パリス・グレイを迎えて結成したユニットがインナー・シティ。
叙情的かつファンキーな旋律とマッシヴなベース・サウンドに、熱情溢れるヴォーカルが絡みつく実験的サウンドを結集した1stアルバム『Paradise』(88年)が大ブレイク。彼の斬新なサウンドがアンダーグラウンドのみならず、ポップ・フィールドでも十分に通用することを実証してみせた。

http://www.youtube.com/watch?v=llBdPk-94p4
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ALEXANDER O'NEAL

2011年09月01日 | Weblog
Alexander O'neal Lord (Bah Samba Mix)

1953年生まれ。70年代後半よりミネアポリスのファンクバンド「ザ・タイム」の前身バンドの「フライト・タイム」のリードボーカリストとして活動。この時に、ジャム&ルイスとの強い関係を築く。しかしバンドの親分格、プリンスとアレックスの間に確執が生まれバンドデビュー前に脱退を余儀なくされ、ソロに転向する。後にジャム&ルイスもタイムを脱退し、ここにアレックス=ジャム&ルイスの最強コラボレーションが誕生。両者の関係は91年の「ALL TRUE MAN」まで続いた。力強いファンクから美しいミディアムやバラードまで完璧にこなす現代屈指のソウルシンガー。

http://www.youtube.com/watch?v=G3S1V9Y8P_Q&feature=youtube_gdata_player
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Eric Kupper

2011年08月31日 | Weblog
キーボードプレイヤー・ギタリストとして楽曲製作のキャリアをスタート。1992年にFrankie Knucklesと共同制作した「Whistle Song」が世界中でビッグヒットを記録する。その後多くのアーティストの楽曲製作に参加し、David Morales, Frankie Knuckles, Arthur Baker、Gloria Estefan、Crystal Waters、Mariah Carey、Madonna、Celine Dion、Michael Jackson、Jennifer Lopez、Jamiroquai、Eric Clapton、Underworld、Bjork、David Bowieなどの世界のトップアーティスト達から絶大なる信頼を得る。

http://www.youtube.com/watch?v=tntbWq7HScE&NR=1
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Risco Connection

2011年08月31日 | Weblog
1979〜80年の短期間に数枚のEPをリリースし、それらがダンスクラシック化したカルトディスコバンドRisco Connection。Risco Connectionと言えば兎にも角にも、David MancusoのLoft Classicとして燦然と輝く"Ain't No Stopping Us Now"(アルバムには"Stopping Version"として収録)が有名。乾いて抜けの良いファンキーなパーカッションや哀愁を誘うメロウなストリングスが印象的なこの曲は、ディスコが好きであろうとなかろうと聴く者の耳を惹きつける。

http://www.youtube.com/watch?v=0JZCVZcP3TM
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Hed Kandi

2010年02月16日 | Weblog
お洒落系ハウスの大きな流れを先導してきたブランドとして絶大な人気を誇る 『Hed Kandi』。ヨーロッパ最大の音楽レーベル MINISTRY OF SOUND が放つ、キャッチーかつポップ、ファンキーなセクシーハウスチューンを常に届けてくれる HED KANDI。パーティーは、UK を始め、IBIZA など全世界にて展開。アジア圏でも、シンガポール、香港、上海、ソウルと展開中。
2008年、CYBERJAPANと、HED KANDI がタッグを組んだ、新星 HED KANDI JAPAN が、日本全国展開スタート。第一弾となった、4/28 には、UK からのゴージャスなデコレーション、そして、HED KANDI のレジデント DJ Andy Warburton、パーカッションライブを披露する IAN.C を迎え、日本側からも 1st MIX CD "The WHITE MIX" が好調な売れ行きを記録する Mitomi Tokoto が出演した。

Belezamusica - Inside Out (Dj Meme Mix)
http://www.youtube.com/watch?v=EvhCsv7U6tY&NR=1

Hed Kandi Ibiza 2007
http://www.youtube.com/watch?v=PBF0ZMm1aU8&feature=related

Craig Jensen feat. Gina Foster - Club Lonely
http://www.youtube.com/watch?v=94aVEOMY9_4
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Danny Tenaglia

2010年02月16日 | Weblog
N.Y. 出身だが一時マイアミに移住し、MURK BOYS 他、アンダーグラウンドシーンに多大な影響を与えたベテラン。 95年には、 DAPHINE , JAMIROQUAI , GRACE JONES , THE DAOU , MURK BOYS のリミックス・プロダクションを手掛け、メインストリームでも人気を得ていた。 レジスタンスDJとしてのハウスではないが、月1回の "AQUA BOOTY" で彼のアンダーグラウンドでスピリチュアルな世界に触れることができる。 また、 TRIBAL AMERICA より本人名義のアルバムもリリースされ、コマーシャライズされたDJが多い現在のダンスミュージックシーンにおいて、彼のアンダーグラウンドに徹した独自のトライバルなプレイは唯一の存在である。

Danny Tenaglia - Music Is The Answer
http://www.youtube.com/watch?v=R3BuU_RglCo

Kimara Lovelace - Only You [Danny Tenaglia Mix]
http://www.youtube.com/watch?v=VXiP90SaojQ

Blondie - Nothing Is Real But The Girl (Danny Tenaglia Club
http://www.youtube.com/watch?v=lka109uCm3M
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ALFREDO

2010年02月12日 | Weblog
アルゼンチンで生まれ、「La Capital」新聞社の映画・音楽評論家を経て、1970年代半ばにクラブ・シーン勃興前のイビサ島に上陸する。その後、1982年にDJを始め、「アムネシア(amnesia)」のレジデントDJとなる。そして、1987年の8月のある日、現在も伝説として語り継がれている、ヨーロッパのクラブ・カルチャーにとって最も重要な夜が訪れる。数名のイギリス人の若者達がヴァカンスでイビサ島を訪れ、「amnesia」でアルフレドのプレイを体験したのだ。その若者達とは、当時まだ無名だったポール・オークンフォールド(Paul Oakenfold)、ダニー・ランプリング(Danny Rampling)、ニッキー・ホロウェイ(Nicky Holloway)、トレヴァー・ファング(Trevor Fung)、ジョニー・ウォーカー(Johnny Walker)である。この頃のU.K.のクラブ・シーンは細分化が進み、膠着状態に陥っていたのだが、ロック、ソウル、レゲエからアシッド・ハウスや映画音楽まで一つの文脈でプレイする、アルフレドのオープン・マインドなバレアリック・スタイルは、彼らにとてつもなく大きな衝撃を与えた。すぐさま彼らはイビサで体験したバレアリック・スタイルをU.K.に持ち帰り、ポール・オークンフォールドは「スペクトラム(Spectrum)」、ダニー・ランプリングは「シューム(Shoom)」、ニッキー・ホロウェイは「トリップ(Trip)」と、それぞれ新しいパーティーをスタートさせた。これらの新しいパーティーと新しいスタイルは、瞬く間にU.K.中を席捲した。例えば、今や伝説となった「シューム」には、当初50人の客しか集まらなかったが、1年後には毎週末クラブに入りきらない2000人ものクラウドが道端に溢れ出すという、とんでもないビッグ・ムーヴメントに成長する。この様な状態は1987年から 1989年までの間、ずっと続いた。この3年間は、いわゆる'セカンド・サマー・オヴ・ラヴ'と呼ばれる時期と完全に一致する。つまり、'セカンド・サマー・オヴ・ラヴ'、'レイヴ,ウェアハウス・カルチャー'、'マンチェスター・ブーム'、ひいては昨今の'ディスコ・ダブ'まで、イビサに端を発する一連の出来事の引き金を引いた張本人が、アルフレドなのである。もし、アルフレドと彼らの出会いが無ければ、現在のヨーロッパのクラブ・シーンは全く違う物になっていたであろう。彼は正に、バレアリック・カルチャーの伝説の生き証人であり、イビサの代名詞的存在である。

Vengaboys - We're Going To Ibiza (Extended Remix) DJ Alfredo
http://www.youtube.com/watch?v=V1K6IqApzSA

Espirit - Sueno Ibiza (Alfredo's Spirit of '89 Mix)
http://www.youtube.com/watch?v=fgmmA9CV-hY

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BEN WATT

2010年02月10日 | Weblog
1982年にTracey Thornと共に結成した"Everything But The Girl"が活動休止までの15年間、世界中の音楽シーンに残した功績は計り知れない。プラチナ/ゴールドディスクを含む9枚のアルバムを産み出し、世界中の音楽チャートで1位を記録したシングル"missing"は90年代を代表する一曲と言えるだろう。"Howie B"の勧めで、DJを始めたのが32歳の頃。ジャズ、ドラムンベース、ディープハウスなどを生まれもっての音楽センスで吸収し、すぐに、当時ロンドンでトップクラスの人気を誇るJames Lavelle主催のSwerve、Fabio主催のSwerve、Howie BのパーティーでDJをするまでに成長。
1998年、ディープハウスに魅了されたBEN WATTは自身のパーティー"Lazy Dog"をスタートすると同時に、数々のアーティストのリミックスを手掛けるようになり(Sade、Sunshine Anderson、Zero7、Maxwelなど)いわゆるメインストリームからダンスミュージックの世界へと自身の活動をシフトチェンジしていくことになる。
2003年、ディープハウス、テックハウスのシーンで、現在まで根強い人気を誇るレーベル"Buzzin' Fly"を設立。都会的で浮遊感のある音楽からスタイリッシュなアートワークに至るまで、独自の世界観を持つこのレーベルで、BEN WATTは自身の作品をリリースしながら、新しいミュージシャンの発掘に力を注ぎ、"JUSTIN MARTIN"、"Mlle Caro & Franck Garcia"、"Rodamaal"などをデビューさせてきた。"Buzzin' Fly"は、2004年にHouse Music Awardsにて、"Best Breaking Label"、2007年& 2008年連続でDJ Magazineが選ぶ"Best OfBritish Awards"に選出され、レーベル所属アーティスト"JUSTIN MARTIN"のミックスCD "Chaos Restored 2"が"Best Mix Album"に選ばれるなど、レーベルの人気も今や不動のものになっている。

Deep House Music: Ben Watt - Lone Cat (Holding On)
http://www.youtube.com/watch?v=h0v0Klq0T8E

Sade - By Your Side (Ben Watt Lazy Dog Remix)
http://www.youtube.com/watch?v=FrbVw5Z6vLs

Ben Watt - Lone Cat
http://www.youtube.com/watch?v=QHs6cc8AS5Q
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Ashley Beedle

2010年02月10日 | Weblog
イングランドのヘメル・ヘンプステッドで1962年に生まれたビードルは、アシッドハウスが爆発的な盛り上がりを見せる80年代後半にDJを始めた。だがKISS FMでのNorman JayのDJスタイルを聴くやいなや、ディスコスタイルを取り入れるようになった。
それから旧知の仲であったRob MelloとJohn Howardとの「Black Science Orchestra」を結成すると、3人はTrammpsの「Where Were You (When the Lights Went Out)?」をリワークしたデビューシングル「Where Were You」をJunior Boy's Ownレーベルからリリースした。ハウス界のゴッドファーザーFrankie Knucklesにセカンドシングル「Strong」 (Melloにとって代わりLinsey Edwardsと共にレコーディングしたもの)を渡すと、「Where Were You」も彼にプレイされるようになった。
BeedleはエンジニアのMarc WoolfordとキーボードプレイヤーのUschi Classenをサードシングルで起用し「New Jersey Deep」を完成させ、F.ナックルズやMasters at Workにヘビープレイされるとハウスクラシックとして名を刻んだ。

Kate Bush - Running Up That Hill (Ashley Beedle Edit)
http://www.youtube.com/watch?v=dgXQQxcwleM

Bent - Always - Ashley Beedle Mix
http://www.youtube.com/watch?v=GPln_LklF3A

Jamiroquai Seven Days In Sunny June Ashley Beedle Heavy Disco Dub Remix
http://www.youtube.com/watch?v=iLKmkjmOYa4
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Seun Kuti & Egypt 80

2010年02月10日 | Weblog
ナイジェリアの英雄Fela Kutiの息子Seun Kutiのデビュー・シングルは、なんとFela黄金期を支えた伝説的バンドEgypt 80を従えて録音されたFela直系サウンド。“Think Afrika”はシリアスなアフロ・チューンで、カッティング・ギター、ホーンが鳴り響くアフロ・ビートをバックに、力強いメッセージを込めて歌うその姿は、まさにFelaそのもの。また、カップリングに収録されている“Na oil”も、曲調こそポップなものとなっているが、こちらも貧困や戦争などの社会問題について歌われた曲である。近年、アフリカ音楽の要素を含んだ作品は頻繁にリリースされるが、こうしたストレートなアフロ・ミュージックに出会う機会が減ってきているだけに新鮮。ちなみに本作のリリースは良質なディープ・ハウスを量産するStill Music

Seun Kuti and Egypt 80 perform "Think Africa"
http://www.youtube.com/watch?v=PCJ2QoQDWno

Seun Kuti & Egypt 80: "Na Oil" - Live in Sydney, 12/6/09
http://www.youtube.com/watch?v=YxZJo7jAOT4

Seun Kuti in London, Ontario with Egypt 80
http://www.youtube.com/watch?v=izTh527bHpk&feature=related
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Olufela Olufemi Anikulapo Kuti

2010年02月10日 | Weblog
1962年、フェラ・クティとレミ・クティのあいだにロンドンで生まれ、ナイジェリアの前首都のラゴスで育った。母親のレミがフェラのもとを離れると、フェミはレミと共に生活するようになった。その後、フェミは父親と共に行動することを決め、最終的にフェラのバンドの一員となった。
父フェラ・クティと同様に、ナイジェリアの政治的・社会的問題に強い関心を示した。ただし、宗教観については意見を異にした。
2001年、アルバム「Fight to Win」で、コモン、モス・デフ、マニー・マーク、ジャグアー・ライトなどのアメリカのミュージシャンと共演した。
2002年、人生に影響を及ぼした母親レミが60歳で亡くなった。 息子は、フェミのバンドでアルトサックスを演奏している。
ゲーム「グランド・セフト・オートIV」でヴォイスアクターを務め、ラジオ局IF99(International Funk 99のことで、”西アフリカ、アメリカなどの有名局を放送する”とされる)の司会者役を演じた。

Femi Kuti BENG BENG BENG
http://www.youtube.com/watch?v=VIuHBxC7igk&feature=related

Femi Kuti- Live at the Africa Shrine(Fela Death)
http://www.youtube.com/watch?v=CuWV8ellRM8

Femi Kuti - Dem Bobo(African Shrine Lagos)
http://www.youtube.com/watch?v=rOs_nRrMCT8&feature=related
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Salif Keïta

2010年02月10日 | Weblog
裕福な貴族家の生まれで、古代マリ帝国王家の直系の子孫に当たる。しかしアルビノにより生まれ持った白い肌は、社会から迫害とも言える差別をもたらした。一族からも追放同然の差別を受け、若き日の生活は貧しかったという。
幼少期より音楽の才能を示し、1967年にミュージシャンを志して首都バマコに移り住んだ。いくつかのバンドに参加して音楽活動を続けると、次第に西アフリカ地域で人気を得るようになる。1984年にはフランス・パリに拠点を移し、1987年にアルバム『ソロ』でソロデビュー。このアルバムによってアフリカ以外での人気を獲得し、ヨーロッパ・ツアーも実現した。
以降も精力的に音楽活動を続け、その強靭な歌声とミステリアスな外見によってカリスマ的な人気を得ている。またアルビノの人々の支援する活動も積極的に行っている。

Mali - Salif Keita - Tekere
http://www.youtube.com/watch?v=_eGAa-rfR_g

Salif Keita - "Africa"
http://www.youtube.com/watch?v=LXYgCf24z5M

Mali - Salif Keita - African Woman
http://www.youtube.com/watch?v=ZV38a-xlB0k&feature=channel
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INSTANT FUNK

2010年02月09日 | Weblog
インスタント・ファンクは、ニュージャージー州トレントン出身のセルフ・コンテインド・グループ。バニー・シグラーのバック・バンドに丸抱えされてフィラデルフィアに移り、名曲・名盤の数々を演奏。1976年には、彼ら自身のアルバムも発表した。
70年代末になって、シグラーはサルソウル傘下のゴールド・マインドに移籍。インスタント・ファンクも行動を共にした。結果、生まれたのが "I Got My Mind Made Up" のナンバー1ヒット。この曲を収めたアルバムは、アルバム・チャート1位の成功を収めた。プロデュースはバニー・シグラー。ファンクからバラードまで、ジェームス・カーマイケルのソウルフルな歌が躍動する。

Instant Funk -i got my mind made up /salsoul1978
http://www.youtube.com/watch?v=oyamxbMXQs0&feature=related

Instant Funk - Bodyshine
http://www.youtube.com/watch?v=-i912WWyWok

Instant Funk - Everybody
http://www.youtube.com/watch?v=ZiVvR_qHyWg
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Disco inferno

2010年02月08日 | Weblog
旧姓名はアンナ・メイ・ブロック。後に夫となるアイク・ターナーに見出され、1960年にアイク&ティナ・ターナーとしてデビュー。野性的でパワフルな歌唱と激しいステージングで人気を博し、R&B界で多くのヒットを飛ばす。1971年にはCCRのカバー曲「プラウド・メアリー」がポップチャートでも大ヒットする。
夫アイクの暴力や麻薬中毒が深刻になり離婚。契約上の問題からアイク&ティナ・ターナー時代の曲を歌うことができず、1970年代後半は不遇をかこっていた。しかし、この頃、イギリスのB.E.F(ブリティシュ・エレクトリック・ファンデーション)のリーダーであるマーティン・ウェアより、カバー曲のゲストボーカルになることを強く促され、グレン・グレゴリーと満を持してレコーディングしたBall of confusion(That's what the world is today) (テンプテーションズ)のカバーが全英シングルチャートでスマッシュヒットし、再び脚光を浴びることになった。
1984年、アルバム『プライヴェート・ダンサー』からシングルカットされた「愛の魔力(What's Love Got to Do with It?)」が全米1位を記録。グラミー賞最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀女性ポップボーカル賞に輝き、トップスターとして華麗なる復活を遂げた。
デヴィッド・ボウイとの「Tonight」、ブライアン・アダムスとの「It's Only Love」、エリック・クラプトンとの「Tearing Us Apart」といったデュエットでも話題になり、映画『マッドマックス/サンダードーム』の主題歌も大ヒット。1990年代以降も安定した活躍を続けている。

Tina Turner Disco Inferno
http://www.youtube.com/watch?v=5oNgSfF8V7g&feature=related

Disco inferno
http://www.youtube.com/watch?v=4YH5MEyNuIM&feature=related
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Fela Anikulapo Kuti

2010年02月07日 | Weblog
幼時〜大学まで
1938年、フェラ・ランサム・クティはナイジェリアのアベオクタに生まれる。父は牧師兼教師でミュージシャンのキャノン・I・O・ランサム・クティ、母はナショナリズム運動家のフンミラヨ・アニクラポ・クティ。他に兄と弟、妹が1人ずついる。経済的には中程度以上の家庭であり、両親の影響で幼時は医学を学んでいたが、比較的早期に音楽への道を志すようになる。

クーラ・ロビトス
1958年、ロンドンのトリニティ音楽大学に入学し、単身留学する。在学中にトランペットを習得し、友人たちと「フェラ・アンド・クーラ・ロビトス」(Fela Ransome-Kuti & the Koola Lobitos) を結成する。なおこの時期に黒人差別を体感したことが、彼に生涯にわたる深い影響を及ぼすことになる。1963年、同大学卒業。21歳のときに結婚した3歳年下の女性とナイジェリアに帰国する。クーラ・ロビトスを率いて本格的に音楽活動を開始するが、金銭面でかなり苦戦する。これはナイジェリアには音楽を愛好する富裕層が少ないことが一因であった。そのため彼はガーナへツアーに旅立つ。当時は流行のハイライフ・ジャズを演奏しており、バンドは人気を獲得するが金銭面での不調は続く。1968年、アメリカツアーに向けた記者会見上で、自身の音楽を「アフロビート」と定義する。1969年、アメリカへツアーに旅立つ。しかし同国においてハイライフ・ジャズはありふれた音楽であり、聴衆の関心を集めるものではなかった。マネジメントにも恵まれず、さらに彼らは労働許可証を保持していなかったためアメリカ移民局に睨まれ、メンバーの一部が離脱するなど辛酸を舐めることになる。さらにここでも黒人差別に直面し、マルコムXやブラックパンサー党などについて学び始める。これにより彼の音楽性は輸入音楽の物真似からアフリカ土着音楽への転換と、さらに政治的メッセージの重視へと変貌を遂げる。

アフリカ70
1970年、ナイジェリアへ帰国。アフロ・スポットと名付けた会場を拠点に活動し、バンド名を「'フェラ・アンド・ナイジェリア70」'、次いで「フェラ・アンド・アフリカ70」(Fela Ransome-Kuti and the Africa '70)に改名、この頃に上記の音楽性は確立される。これが「アフロビート」の完成である。聴衆の獲得に成功し、アフロ・スポットを「アフリカ・シュライン」に改名し、以後同会場はフェラの活動本拠地となり、聖地として現在も名高い。なおシュラインは「聖堂」を意味する。政治的メッセージはより強化され、黒人の解放に加えてキリスト教、イスラム教の破棄、パン・アフリカニズムの実現をも訴えるようになる。またそれによる富裕層の圧迫も、時とともに激しさを増すようになる

1974年、弾圧はついに公権力に及び、フェラは警察の自演による大麻所持容疑と未成年者誘拐で逮捕され、カラクタ監房に2週間拘置される。しかし大麻所持は証明されず、さらにフェラの許にいた未成年の女性(実際は成年女性だった)はあくまで自身の意思による家出であることが明かされ、彼は釈放される。帰宅したフェラは自宅の周囲を高さ4mの有刺鉄線で囲み、そこを「カラクタ共和国」と命名した。彼はその場所で志を同じくして集まった仲間たちと共同生活を営み、国家との対立を一層深めるようになる。一方でカメルーンツアーを成功させるなど、商業的には絶大な成功を収めるようになる。1975年、再び逮捕された経験を元に「Expensive Shit」を、警察にカラクタ共和国を攻撃された際に負傷した経験を元に「Kalakuta Show」を発表しヒットする。彼は都合12回逮捕されるが、そのつど証拠不十分によって釈放されている。

1976年、フェラは白人に強制されていたキリスト教の洗礼名「ランサム」を捨て、フェラ・アニクラポ・クティと改名する。アニクラポは「死を操れる者」の意味。また軍隊をゾンビに喩えた屈指の代表作「Zombie」はこの年に発表された。1977年、対立はついに頂点に達し1,000人の軍隊により共和国は襲撃を受ける。建造物は放火によって消失、77歳になっていたフェラの母フンミラヨはこのとき受けた傷が元で翌年他界する。フェラは拘留され裁判が開かれるが、この公判は警察によってニューヨーク・タイムズなどの外国報道機関を追放した閉鎖的なものであった。結果的に彼は釈放されるが政府の圧力により公演会場からは締め出されてしまい、カラクタ「共和国」という呼称も禁止勧告を受ける。1978年、バンドメンバーである女性コーラス27人と合同結婚式を行う。

エジプト80
1981年、音楽活動の傍ら講演会やシンポジウムに精力的に参加するようになり、大学生などから熱烈な支持を受ける。またこの年以降、バンド名を「フェラ・アンド・エジプト80」(Fela Anikulapo Kuti and the Egypt '80) に改名する。なおこの年日本版アルバムが初めて発売され、日本における認知が深まる。1984年、為替管理違反でついに懲役10年の実刑判決を受ける。しかし刑を宣告した裁判官本人が圧力による不当な判決である旨を公表し、国際的に支援運動が展開され1986年には釈放される。1980年代には音楽にエレクトリックサウンドが導入されるようになるが、フェラの体調不良やモチベーションの低下もあり活動は停滞を始め、リリースが減少していく。

1997年8月2日、エイズによる合併症で死去。58歳。自身の音楽活動は実子のフェミ・クティ(Femi Kuti、1962年6月16日-)により受け継がれ、現在に至っている。

Fela Kuti & Afrika 70 "Zombie"
http://www.youtube.com/watch?v=iBgewcFh-cg

Fela Anikulapo Kuti & Africa 70 - Eko ILE Black Man's Cry
http://www.youtube.com/watch?v=4KUjrQUd26M

Fela Anikulapo Kuti & Africa 70 - Roforofo Fight
http://www.youtube.com/watch?v=mmwOAuJPmoM
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