私にとっての幼きイエスの聖テレジア

2017-05-18 12:14:42 | Weblog
今は昔、すでに半世紀以上前のはなしになるけれど、かなり怠け者の子供だった当方、怠けすぎて英語がひどい点数になり、これはまずいとお考えになった担任の先生の紹介で、週一度、某女子大生の方が家に来て勉強を教えてくださることになった。その方のおかげで今、インターネット機器を使うのに必要なくらいの英語力は身に付いたと言って間違いない。少なくとも何とか読めるくらいのことはできるようになったわけだ。本当に感謝するばかりだ。

で、その方の大学がミッション系だったので何かの端々にキリスト教関係の話もあって、細かいことは覚えていないが、幼きイエスの聖テレジアの名前を聞いたのはその時ではなかったかと思う。で、ずっとこのお名前を憶えていて忘れなかった。でも後年、カトリックに改宗したときなんだか照れくさくて、アシジの聖フランシスコのお名前のほうを霊名にいただいたのだった。おばあさんになっても一生付きまとう名前は、少女っぽいテレジアよりフランシスカの方が良いと考えたからだ。本名の名前を父が初め、可愛いから花子とつけようとして、祖父母から年を取ってからお花婆さんになるのはかわいそうだと言われて、今の名前にしたと聞いていたのが頭に残っていたのだ。

だから、小さいテレジア様の名前はかなり昔から知っていたしお父さんっ子だった当方、非常に共感するところ大だったのだ。そしてちょうど改宗して間もなく、小さいテレジアの伝記や手紙がどんどん出版され、お名前だけは子供のころから知っていたこの方がどういう方だったのかはじめてちゃんとわかったのだった。

(それがどうして、ある方々にはイエスの小さい姉妹会に入りたいなどと思っているとみられたのか全く訳が分からない。どこの誰がそういう話を作り上げたのか知らないが、そんな話は断然違う。作り話はいいかげんにしてもらいたい)

とにかく小さいテレジア様を通してカルメル会の名前を知り、遠藤周作先生や井上洋治神父様を知り、自分の中にある親から受け継いだ宗教的なものはどうも既成の修道会では対応するものがないのを感じて何十年も経って、つい最近、たまたま、風の家のミサや講座などに行っていて、あ、これだ、と思ったわけだ。

(今にして多少分かることは、日本人の宗教観と欧米のカトリック信者の考え方、感じ方は相当に違うのは確かだと思う。だから本や機械にはお金をかけても身なりにお金をかけていないと、中小企業に勤めていると、ただ、貧乏人、貧しい家庭の人の入る修道会向きと判断されたような気がする。まあ、そう思いたければ思っておれ。日本には襤褸は着てても心の錦という歌の文句もあるくらいなのだ。外見がその人の全てじゃないだろうがと言いたい。そんな程度のものはこちらでもお断りだ。)

鎌倉時代からの先祖代々の所縁があるのは中山法華経寺であり、日蓮宗が代々の背景にあるのは紛れもない事実だが、だからこそ宮沢賢治の作品もピンとくるし、宗教は違っても人間を遥かに超えた大きな大きなお方の存在も分かるから、その大本を辿ってイエス様に辿り着いたのだ。お金のあるなしや、どんな会社にいるのかや、身なりの良し悪しだけでその人が正しく判断できるのかい。そんなのはスペイン人ではない当方には正直、理解できかねるはなしだ。もっとも最近は日本人でも分からない人には分からないようだが。

小さいテレジア様に戻るが、この方が残してくださった教えは社会のどんな層の人にも、どんな年代の人にも、男女の違いも越えて神様に、イエス様に近づける道なのだとつくづくおもう。ああだ、こうだというより、子供が親を信頼し、任せるように神様に本気で向き合っていったらいろいろなことが変わっていくような気がするのだ。

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