times like these

What will be will be, and so it goes...

暗闇の中での思考

2009-07-12 | Weblog

気づくと僕の背中には翼がなかった

あんなにきれいな翼だったのに
跡形もなく、消えてしまっている

目の前は真っ暗闇

誰もいない
光がない

今自分が立っている場所には地面がある
そのことを足の裏の皮膚から感じることができる

それだけ

ほかに感じられるものは何もない
何も見えない。

自分の前に道が、地面があるのかもわからない
前に進み出れば、闇に吸い込まれて消えてしまいそうな気がする

怖くてたまらない

こうしてここに立っているだけでも、周りにひろがる暗闇に
蝕まれてしまいそうだ

自分の体が本当にここにあるのかもわからなくなってきた
僕の腕はくっついている?ほんとに自分の足でたっている?

思考にまで暗闇が浸食してきているようだ

翼がなくなった今、上へ、空へ飛び立つ事もできない

今の僕はどこへ向かう事もできない。
横へ逃げる事も、後ずさりもできないのだ。

暗いクライくらい

なぜこんな状況に自分がいるのか考えてみる

僕は確かあの美しい立派な翼で、どこまでも抜けるような青空を
飛び回っていたはずだ
気持ちよく風を切り、なにもかもが自分の思い通りになるような気がしながら
なんて素晴らしい人生なんだと喜びを噛み締めていたのだ

だが僕は自分の羽に亀裂がはいっていたのを知らなかった
それは気づくべき欠陥だった
なによりも、誰よりも早く気づいて手当すべきだったのだ

僕はそんなことにも気づかないほど有頂天だった
飛んでいたはずなのに、地に足がついていなかったなんて
ひどいジョークだ。

僕の翼は突如としてぼきりと折れて、僕の体は地面へ真っ逆さま

落ちている間、時間はゆっくりと流れていた。
折れた翼の羽がバラバラになって、空に散らばっていくのが見える。

まるで雪のようできれいだった。

僕は地面へ落ちるまでまだ時間がかかるだろうと思い
そのまま気を失う事にした。


気づいたとき僕はこの暗闇の中で立っていた。
そして背中からは翼が消えてなくなっていた。


さて

僕は迷っていた

このまま立ちすくむべきなのか

前へ進むべきなのか

それとも翼が生えてきて、また飛び立てるようになるのを待つべきなのか


暗闇の中にいることは慣れてしまえば特に苦痛ではなかった。
一番辛かったのは

そこに僕以外のだれもいなかったということだ。











帰省

2008-09-15 | Weblog

「死」というものは僕にとって、かなり朧げなものだ。
今ふと振り返ってみると、僕はいつも「死」というものから遠く離れた場所にいたのだなと思う。
それは距離的にも、精神的にもである。

祖母が亡くなった時も、叔父さんが亡くなった時も、それはどこか別の世界で起こっているようだった。そして、その出来事は、その後の僕の心境や考え方に影響を与えることはなかった。

全くなかったとはいえないけれども、それはきっとコップ一杯分の水に一粒の雫が落ちてできた波紋程度のもので、巨大な波になって僕の心を打ち倒し、流し攫うようなことなんてなかった。

祖母は僕が小さい時に亡くなったからあまり思い出がなかったし、叔父さんにしても、叔父さんはあまり話す人ではなかったし、僕も人見知りをしてあまり話すほうではなかったから、やはり深い思い出があったわけではなかった。
そして僕はいつも人が死んだことを、話として聞き、直接その場に居合わせるようなことはなかった。

本当に自分が愛情を注いだ人、もしくは愛情を注いでもらった人が、周りから存在しなくなるということがなかった。きっと、そんな環境が僕の中の「死」をいつまでも晴れない霧のような曖昧なものへと変化させてしまったんだろう。

僕は人が死んでも泣くことはなかったし、それは今でもそうだ。
そしてついこの間、ジェニファーが死んだ。
僕は東京にいて、それを話として聞いた。やはり涙はでてこなかった。
けれどなんだかよくわからないぽっかりとした喪失感が僕の心を包んでいた。



14年と半年。シーズーという小型犬にしてはかなり長生きしたほうだと思う。
僕は18の時に東京に出て行ってしまって、それからはあまり会うことも面倒を見ることもなかった。たまに実家に帰ると、だれだこいつは?という不思議な表情をされていささか傷ついたこともある。

自由奔放に生きていたジェニファーも、去年の夏ごろに、おなかに腫瘍ができた。腫瘍を取り出す大手術を乗り越えて、ジェニファーはその後もがんばって生きていた。
けれど精密検査をしたところ、その腫瘍はガンで、転移している可能性は大きいとのことだった。
薬を使って進行を遅らせることができるという提案もいただいたが、うちの家族はそのままにすることにした。僕もそれに賛成した。



僕とジェニファーが初めて出会ったのは、僕が小学3年生のときだったと思う。当たり前だけれど、そのときジェニファーはジェニファーではなくて、生まれたばかりの子犬だった。

家で犬を飼う、という決定が下されてから、僕はどんな犬を飼おうと毎日のように犬の本を眺めて想像を膨らませていた。その当時僕はなぜかシェットランドシープドッグというコリーを一回り小さくしたような犬が気に入り、両親にこの犬にしよう、とせがんでいた。なんでシェットランドシープドッグだったのか、よくわからない。シュッとした細い顔立ちがスマートでかっこよく見えたのかも知れない。
とにかく僕はうちにはシェットランドシープドッグがやってくるんだと思い込んでいた。

ところがやってきたのは、思い描いていた犬よりも一周りも二周りも小さい綿菓子みたいな犬だった。なんだかんだと家族の意見を聞いていた親父だったが、結局最後は自分が好きな犬を選んでいたのだ。

その小さな綿菓子犬は、かごの中からよたよたと歩き出てきて、うちの応接間の絨毯を不思議そうに眺めていた。彼女は僕の手のひらぐらいの大きさで、僕が手を差し出すと、手のひらの上に両前足を、とんとんっとのせた。
ふわふわした毛が僕の手のひらをくすぐり、柔らかくてまだ黒ずんでいない肉球は手のなかに沈んでいった。


僕の手にのった彼女は、本当に美人だった。
生まれ出てきて、この世界のことをまったく知らないというナイーブな表情が僕にはたまらなくかわいく見えた。
彼女はとびきりに可愛くて、僕はもうシェットランドシープドッグのことなんてどうでもよくなっていた。


その日から、何日間か家族の中で名前決定会議が幾度となく開かれることになる。いろいろな名前が出たが、なぜか僕の思いつきで言った、「ジェニファー」という名前が名づけられることになった。

今振り返ってみると小学3年生の子供がなぜ「ジェニファー」という名前を思いついたのかが不思議だ。
ジェニファー?
なんでそんな名前を思いついたのかがよく思い出せない。
恐らくその当時見ていた漫画かアニメの登場人物だったんだろうとは思う。
それよりなにより不思議なのは、家族全員が不思議とその名前に反対をしなかったことだ。僕の突拍子のない意見は異議を立てられることなく、その綿菓子犬へと届けられることになった。
そして僕はいわゆる名付け親になった。


そんなジェニファーはもういなくなって、今は小さな箱に入っている。
とてもきれいな骨だった。
彼女は本当にがんばって生きた。そして僕の家族を幸せにしてきた。

ジェニファーは僕のことをいつも馬鹿にしていたけど、僕の膝の上だけは
お気に入りの場所みたいだった。膝の間に顔をうずめる彼女の姿がまざまざと
思い浮かぶ。僕はもう彼女を膝の上で居眠りをさせることもできない。

大事なものがひとつなくなって、僕は「死」にちょっと近づいたのかな。
そんな気がする。


バイバイ、ジェニファー。


上野動物園

2008-08-31 | Weblog

上野動物園に行ってきました。

動物園に行くのは実に久しぶりなものです。
最後に動物園というものに行ったのはホノルルでだったかな。
福岡でも動物園なんて小学生以来いっていないからたぶんそうだと思うな。

ホノルルの動物園は、そんなに巨大ではないけど、あのハワイ特有の
カラッとした空気と燦燦と照りつける太陽の下、動物たちがみんなのんびりと
日光浴をしていたのを覚えてます。いや~平和だったなぁ。

実を言うと東京に5年近く住んでいるけれど、上野動物園に来たのは
今日が初めてなわけです。
「動物園なんて!」と別に依怙地になって避けていたわけでもないし、
動物園で虎に襲われて食べられそうになったから二度といかない!とか
そんなトラウマやら怨恨があるわけでもなんでもないです。
ただ単に「動物園に行こう!」という確固たる意思を生み出す何らかの
ファクターが、僕の日々の生活の中には、今日の朝11時ごろまで
存在しなかったというだけのことです。

だって動物園なんて行かなくても毎日は過ぎていくわけで、
行かなかったから食いに困るとか、精神不安定になるとか、
薬物依存症になっちゃたりだとか、そんなこと皆無に等しいわけだから。
というか、まったく無いのだけど。


昨日まで続いていた雷雨をともなっていたゲリラ豪雨は、うそのように
晴れ渡っていて、上野公園では猫が一匹、日差しをたっぷりと浴びて
死んだように眠ってました。

肝心の動物園の主役たちはというと、みんな昨日までの雨で気持ちが
陰鬱としていたのか、久しぶりの太陽の日差しを感じて、あるもの 
(カワウソとか) は嬉々と動き回ったり、あるもの (コンドルとか) 
は気持ちよさそうに日光浴に励んだりしていました。
日の光を浴びて、生命の喜びを感じるのは人間だけではないみたいですね。
というか人間も動物だからこういう上からの発言はいかんですが。

ひさしぶりの生の動物たちを目の前にして、最初は心躍っていたんだけども、
いくつもケージに入れられた動物たちを眺めていると次第にげんなりとしてきてしまった。

動物たちはみんな生気に溢れていて、見とれてしまうほど素敵で可憐な体を
しているのに、こんなちっちゃな限定された空間しか動くことを許されずに、
無数の目から視姦にも近いほどじろじろと見られているのである。
600円払ってわざわざ見に来た僕が言うのもなんだが、はたから見ると
ほんとにかわいそうと思えてきたのである。

けれど、動物園なんて結局のところそんなもので、それを見に来ている僕らも
「そんなもの」の一部なわけである。
それでなんだか気分が落ち込んでしまったわけだけども、やっぱり歩いていて
今まで見たことのない動物なんか見ると、気分は否応なしに上がってくるわけで
、30分もすると僕の気持ちのバロメーターは最高潮に達していたのです。
僕はなんて身勝手なんだ。と自己嫌悪。

さて、動物っていうのはまじまじと眺めてみると改めて面白いもので、
ほんとにやる気がない時なんかは、じっと一点を見つめて微動だにしなかったり
するわけです。
近づいて覗き込んでみても「我関せず」といった感じでピクリとも動かない。
まったく何を考えているのやら、僕なんかには良くわからんわけです。

よく考えると彼らはこの動物園にいる限り、毎日の食事を保障され、
病気にかかれば獣医が即刻飛んでくる最高の保険設備のなかで悠々と
生活しているわけです。(住むところは狭いけど。。)

つまり、朝早く起きて満員電車にギュウギュウと押し詰められて、
会社でぐったりするまで働いたり、有給をとって区役所に税金を納めにいったり、
子供が私立の中学校に入るための入学資金に頭を悩ませたりなんかしなくても
よいわけだ。

「おれさ、実は窮屈なところが好きなんだぜ。」
「あたしも人からじろじろ見られるとなんかこう、気持ち良いのよね。うふふ。」
という、ちょっとMっ気がある動物にしてみれば、動物園って素敵な場所に
見えるんではなかろうか。

そう考えると、ぼーっとするのが好きな僕としては動物園が急に
パラダイスのように思えてきた。
けど、そんな生活、いつか飽きるだろうな。きっと。


とにかく彼らの生活は人間によって保障されていて、ある程度のことを
耐えることが出来れば特に心配するようなことが無いわけだ。
だから、いろんなことをうじうじと考えこんでしまう僕から見ると、
「こいつら何か考えてんのかなー」とか「考えてたとしても何か考えることが
あるのかな」とか、真剣に考え込んでしまうわけである。

といったところで何が言いたいのか良くわからないまま、
ここいらで終わらせていただきます。
動物園、意外に楽しかったです。


アンチパシー to アスファルト

2008-08-18 | Weblog

今日は相方が蓼科に行ってるので、昼から独りで皇居に走りに行きました。

総計1時間ほど走ってみたわけですが、久々に走ってみて
やっぱり僕は走ることが嫌いなのだということを再認識したわけです。

走るのが嫌いだ、と言ってしまうと走ること全般が嫌いだという風に聞こえてしまうので、
ちゃんと訂正するが、僕はアスファルトの上を走るのが嫌いなのである。

アスファルトの上を走っていると、どうにもあの人工的に作られた地面の固さが
足の裏から伝わってきて、走っている間中ずっと頭をなぐられているような感覚に
陥ってしまうんですね。一歩踏み出すたびに、ゴンゴンゴンと振動が伝わってくる感じ。

その振動のせいか、走り終わるといつも頭痛に襲われる。
多分僕の体のバランスやら、走り方もその原因に起因しているのだろうけど、
それを考慮しても僕はどうにもアスファルトを好きになれないのだ。

僕はトレイルランニングで、たまに(ほんとにたまに)山の中を走るのだが、
山の中ではこれが無い。
土がふんわりとクッションになってくれるからあの衝撃が無いわけだ。
秋から冬に変わりつつある時期なんかは最高で、
地面に落ちた枯葉が足を包み込んでくれる。
あまりに気持ちよくて、走っていて声を上げて飛び跳ねたくなるのだ。


と、いうことで結局言いたいのは、僕はアスファルトの上で走るのが嫌いですよ、
ということである。
だったら皇居なんかに走りにいくんじゃねえよ、とお叱りの言葉を受けてしまうのだろうが、
体を動かしたかったのだからしょうがない。

僕の家の近くには、思い切って走れるような山も公園もないので、
最終的に走るところとなると皇居(=アスファルト)となってしまうわけである。
でいだらぼっちみたいに山を家の近くに持ってきてくれる妖怪がいたのならば
いいけれど、ゲゲゲのなんとかでもあるまいし、そんな好都合なことなんて
無いのだからここでぶつぶつぼやくのも多めに見て欲しい。

とにかく、約1時間ほど汗を流した後、案の定頭が痛くなってきたので、
さっさと家に帰ってシャワーを浴びてオリンピック観戦をしたわけだ。

今日は、土佐さんが途中棄権してしまったみたいですね。
足に痛みを抱えながらも25km近くはしった彼女を、1時間程度で音を上げて
退散してしまった僕から見ると、人間ってのは強くなれるものなんだなぁ、
と思うと同時に人生、人それぞれなんかなぁ、と考えさせられるのである。

近くに山があればいいんですけどねぇ。

天邪鬼

2008-05-03 | Weblog

「ひとりでなんて生きていけるわけないから」

彼女の歌うその言葉が

泡となって宙を舞う

ふわりと浮かび、ぱちんと消える。

そのたび僕は、はっとする。

けれど僕は独りでいたい

力がほしくてたまらない

誰の助けも必要としない

どんな苦境をも乗り越えられる

そんな力を

けれど、突如として

このひとつの存在しか受けつけない、

悲しくて、からっぽな匂いを感じると

僕の心はぱちんとはじけて消えてしまいそうになる

「ひとりでなんて生きていけるわけないから」

また目の前で泡がはじける






椅子

2008-04-28 | Weblog

きしり

きしり


幾度も幾度も耐えながら

痛々しい音をたてながら

深く深くに鳴り響き、

深く深くに辿り着く

きしり

きしり

似たよな音が聞こえてくる

のしかかるものに耐える音

がらりがらりと全てが崩れ、

自分が消えてしまわぬよう

ぎしり

きしり

音の無い静かなこの部屋で

深く深くに響き渡る


野の道

2008-03-04 | Weblog
この野の道を

ぼくは一人で歩く。

横に君がいればいいのに。

空に向かってぽつりと呟く。

別に寂しいわけじゃないけれど。

ここにいればいいのに。

君がここにいるならば

僕は君の歌を歌い、

君は僕の歌を歌おう。

どうせ周りには誰もいない。

そして何もない。

ただただ歌を歌おう。

君は僕を思うことも無く、僕も君のことなんて思わない。

寂しくなんてないんだから

別に何も思わない。

けれど君がそばにいればいいのに、

君が歌う僕の歌を聞けたらいいのに。

こんな何もない野の道だから

君が横にいればいいのに。



つまらない僕の一日

2008-03-02 | Weblog

携帯が鳴る。

なぜこの黒くて平べったいものは僕を起こそうとするのか。
岩壁からずり落ちる男を眺め続けるという奇妙な夢から目覚め、
朝一番に憤りを感じてしまう。

この馬鹿!

それは昨日の夜に自分でアラームをセットした自分自身への罵りなんだけど。

足元では電気カイロが、人工的で、優しさを帯びた熱を放ち続けている。
その熱は僕を布団の中へと引き釣り込み、二度と出て行けないようにしてしまう。
そんな暖かな誘惑から這い出てきた僕は一目散にガスストーブをつけ、
その前でうずくまる。
背中に熱風が吹きつけられ、じわじわと体を温める。第二の誘惑だ。
僕はこの誘惑に20分近く捉えられ、やっとの思いで重い腰を上げる。

朝食に何を食べようか。
テーブルの上をみるとパンしかなく、選択の余地はないのだと気づく。
パンをオーブンにいれ焼く。その間僕はテレビを見る。
何も考えることもなくぼんやりと見つめる。
人が笑い、人が怒り、人が死ぬ。
そんな人々をひらぺったい画面を通してつらつらと解説を述べる人達。
この画面内ではそれぞれの思いを持った人間が折り重なり、
そして僕はそれを、眺めている自分もその中に組み込まれているのだとハッとする。
この「ハッ」は驚きなのか、嫌悪なのか、気づきへの嬉しさからなのか。
どれかといわれれば全てだろう。
うだうだとそんな考えが僕の思考回路を駆け巡る。
ピーッ、ピーッ、ピーッ。パンが焼けた。

パンを食べ、シャワーを浴び、歯を磨く。
僕は必ず朝にシャワーを浴びるのだが、別にきれい好きなわけではない。
そうであればもう少しは女の子に好かれただろう。
僕の髪の毛はいかにも日本人といった直毛で且つ剛毛なのである。
そして短髪。そんな頭の男が一晩寝ればそれはもうひどい寝癖が拝めるわけだ。
そんな寝癖を治すために朝シャワーを浴びるのだ。

くたりと折れた髪を乾かし、服を着てようやく家を出る。
冷たい風が顔を切る。三月にもなるとこの冷たさにも慣れ、
特に際立った印象も受けなくなる。
「あぁ今日も寒いのだな」としか思わない。

五分も歩くと駅に着く。人が集まり、乗降口の前にたむろする。
そんな連中の中に入りたくない、と拒否感が体中を走るが、
責任感がそれを体の隅っこへと押しやってしまう。
電車がやってきて、ぱんぱんに人で詰まった箱の中へと体を押し込んで、
「あぁ今日もこんな一日が始まったのだな」としみじみと感じる。

電車の中で僕は本を読む。
この人ごみの中で感じる、虚脱感、焦燥感、人生の意味、息苦しさ。
そんなものを考えなくて済むように、頭の中を僕の知らない世界の中へと
どっぷりと浸すのだ。
僕は電車の中で、アテネに行き、ローマに行き、
おいしいパスタとワインで腹を満たす。あぁなんと幸せなことか。
そしてその妄想の旅は、赤坂見附でストップ。
吸殻が道路に散らばり、道路脇に止まるゴミ収集車からの
鼻にくるすっぱい臭いが漂う町。なんて素敵な一日だ。


仕事の話。
電話が鳴り、でて、喋り、切る。相手を満足させ、納得させ、時に落ち着かせる。
そんなことの繰り返し。
メールも返す。電子メールとはよく言ったもので、
シグナルとなって送信された文字たちは僕のもとへたどり着き、
そして思い思いのことを語りかける。
「ふざけるな」「なんでなの」「これよろしく」「教えてください」
「ありがとう」。
僕はそれに「申し訳ございません」「今後は・・・」「・・・でございます」
「誠にありがとうございました」と返事する。
ただ淡々とそれは仕事としてこなすのみ。
浴びせかけられた言葉から色んな思いが身体に染みこんで、体は朝よりも重く感じる。
仕事が終わり、仕事場からよろよろと出て行く。
そのときの僕は空虚そのものかもしれない。

家に帰る電車の中でも僕は旅へと出かける。
ときどき頭を上げてどこの駅かを確認する。
向かいに座る疲れた顔のおじさんが顔をしかめて眠っている。
みんな疲れてるんだなぁ。
茗荷谷駅に着いたとき、僕のショートトリップは終わり、
すっかり暗くなった家路をとぼとぼと歩く。

家に帰ったとて特にすることもない。
前はロッククライミングをやってて、
仕事終わりには必ずクライミングジムにすっとんでいた。
最近になって情熱が失せてしまい、めっきり行くのをやめてしまった。
そう、ふっと吹き消された蝋燭の灯火のように、僕の情熱は消えてしまった。
どこにいってしまったのだろう、あの狂ったようにクライミングを求めていた気持ちは。
心が昂ることも無く、毎日は過ぎていく。

家では彼女がご飯を作って待っていてくれる。
帰ってきたな、と感じる。
今までの暗い気持ちの反動からか彼女には甘えてしまう。
181cmのでかい男が何をしてんだか、とあきれてしまうのだが、
感情の流出は止められず、べたべたべたべた。
こんな阿呆な僕をやんわりと受け入れてくれる彼女には感謝している。
感謝しているが、言葉にはあまりでない。
僕はシャイなのだ。そして喋り下手。どうにかしたいが、どうもできない。
それが僕の性格だ。


そして僕の一日は終わる。これがつまらない僕の一日。


凪がれ

2008-03-01 | Weblog

乱気流だ


僕は飛び立とうとする


気流が鞭のようにしなり、


風が背中を叩きつけ


いやおうなしに僕の頭は地面を見る。


なににもとらわれず、無重力の中、ふわふわと落ち続ける体


ふわり


くらり


眩暈がする



僕はまた飛び立とうとする


風が右っつらから飛んできた


僕の羽は右の方だけ、ぽきりと音をたてて折れる


それはもう簡単に


あぁさようなら、と羽の生気に別れを告げて


僕は羽をうしない、成す術もない



いや



もともとなにをすることもなかったのだ



なにをしようともせず


ただそこを彷徨って



ふわり ふわり



僕を通り過ぎていく流れは


音も立てず気配も感じさせず


そこにいて当然、というように漂っている


それは平穏そのもので、さっきから僕を打ち付けている風なんてどこにもいない



けれど僕の羽は、やはり片側が折れ、


だらりとぶらさがり、未練があるかのようにくっついている


羽よ


君は生きているのかい


君はもう羽ばたくことはないんだろうか




この風はどこから


どこからやってきた


僕の周りはこんなに静かなのに



夏の京都

2006-12-10 | Weblog
こんばんわ。さむいっすね。


今更?見たいな感じですが九月に行った京都旅行のことでも書き残しておこうかなと。。。あんときゃまだ暑かったんだよな~。月日が経つのは早いモンだ。


今回の旅行は一人旅。LがちょうどそのときHawaii旅行いくってんで放置プレイされるならどっかいこうかなと。んでまえから行きたかった京都に行き先決定。

んで交通手段。安く済ませるにはどーするか?ってことで深夜バスとなりました。新宿を深夜出発の京都に早朝着。往復で大体7000円くらいやったかなー。そこまでバスは苦ではなかったかな。いびきかくやつ隣におったら最悪やったろうけど^^;


寝床はゲストハウス。安く済ませたいって事もあったけどいろんな国の人が集まるって言う環境がどんなもんか見てみたかったけんってのもあったなぁ。結果的に正解でしたね。普通のホテルなんかより1000倍良し!


で、旅行。もう何日間行ったかも忘れたけん写真に残ってることを頼りに細切れに。。。


深夜新宿を出て早朝(大体朝5時半くらいかな?)に京都駅に着。ゲストハウスのチェックインまで時間あったけんぶらぶらして時間つぶす。てか京都駅久々にみたけどやっぱでかかったな~。空港みたい。んで周りが皆関西弁なんですね。あたりまえやけど。。。

ゲストハウスまでは駅から歩いて20分くらい。バスとかつかったらもっとはやいんやろうけど金もったいないし散歩してみたかったしでずっと徒歩。荷物ゲストハウスに置いて早速寺周り敢行!

で写真あるの三十三間堂しかない。。。




暑かったけん汗ダラダラながしながら歩いてたの思い出した。京都は暑かったぜよ。


で、暑かったけん川遊びがしたくなる。で、川がありそうなところ探す。もらった地図をくまなく調べて結局嵐山の奥にある清?川ってとこに行ったよ。↓




そんなきれいな川やなかったけど人がほとんどおらんくて静かでよかったー。嵐山周辺のにぎやかさとは大違い。一人で岩の上にねっころがって川の流れの音を聴く。うーん至福のひと時であった。。。


で、次の写真。




多分たいがいの人はこれ見たらわかるやろうけど、そのとーり、清水寺です。最大の観光スポットの中の一つのため日中は避けて、わざわざ早起きしていったのにすでに先客が。。。おそるべし観光客。。。けど眺めは良かったよ。紅葉の時に来たらもっとよかったんやろうな~。


そんで何日目かに自転車借りて京都市内をぶっ飛ばした。ママチャリですが。バイト先の先輩から賀茂川神社の近くにある定食屋のさば味噌定食がうまい!と聞いてたのでまずは賀茂川神社へ。さば味噌大好き人としてはほってはおけん。
20分くらいで到着(汗ダラダーラ)で、人に道を聞きつつ定食屋発見!さば味噌注文!かっ込む!!うまい!おすすめ!で次へ。


で、お次は賀茂川神社から西へ降りていき金閣寺方面へ。金閣寺は興味ないので竜安寺とか仁和寺とかいった。竜安寺の石庭↓




思ったより小さくて拍子抜け。しかも人多すぎ。つまらぬ。拝観料をかえせぃ!と不満な気持ちとなる。ぶつぶつ。。。


仁和寺はうってかわって広々!気持ちの良い場所だった。拝観料のかからない庭だけでも良い。お金が無い人にはおすすめ。


んで一番良かったのは銭湯!船岡山(?だっけかな?)公園の近くの地元では有名な銭湯にいったのだが自転車疲れも暑さもふっとぶ気持ちよさ。やはり風呂は良い。
で、かえる。
そういえば帰りにとおった京都御所もいいとこだったな~。じゃりじゃりなのでチャリにはむかんけど。。。



夜中に一人で鳥居がいっぱいある神社もいってみた。名前ドワスレ。かなり有名なところかと。。。途中まで登ってみたけど周り真っ暗で怖すぎ。チキンとなり逃げ帰る。。。しかし夜中やったので静かで厳かな雰囲気が味わえてよかった。




↑これはまたもや夜中の建仁寺。ゲストハウスが建仁寺の近くやったけん帰りに良く行きました。やっぱりしずかで良かったです。建仁寺はいつでも入れますよ。おすすめ。





最後の前の日に大原へ。音なしの滝をみて川を歩いて下ってたら日が木にあたって綺麗だったのでパチリ。この日はとてもいい天気だったなぁ、そいえば。何か面白いもの無いかな~ってぶらぶらしとったら染物屋があったんでぷらり。
「体験で自分で染めれますよ~」
「はぁそうですか~。では、やります。」
ということで自分でハンカチを染めることに。
染物屋の人達は明るくて、みんな手が色んな色してた。
染物はなんか陶芸みたいだった。自然の力を借りたART。今回できたハンカチはなんか不恰好なものになったけど、またいつかやりたいなと思った。


こんな話以外にもゲストハウスでの話とかまだ色々あるけど長くなったので、また気が向いたら書こかな。ではさらば。また更新する日まで