存在の不思議、無常の力

キャリアコンサルタント、田中道博のブログです。
こちらもご覧ください。→http://www.ashimira.jp/

志村けんのこと

2020年03月30日 | キャリア

彼の登場は衝撃的だった。


1974年というから私は小学校1年生の頃だろうか。センセーショナルな出会いだった。


荒井注さん無きあとのザ・ドリフターズに加入した「ホープ」と呼ぶにふさわしい存在感を発揮していた。


彼が登場した直後、家族でザ・ドリフターズの舞台を観た。楽しみで、そしてホント楽しくて、笑顔に溢れた経験だった。


あの日大阪フェスティバルホールでの妹たちの満面の笑みを忘れることができない。自分も心の底から笑った。



もちろん毎週土曜日の20時にはテレビの前から離れなかった。昭和の家族団らんの典型と言える風景。


その後の活躍は言わずもがなだ。


彼の死は悲しい。けれども自由に生き、自分という人間を生き尽くした感があり、そして潔い最期。そんなことへの羨ましさや憧れや様々な感慨が残る。


彼のことは忘れない。彼はそんな私のような人が世の中に多くいることを意識していただろう。だから、幸せな人生だったのだろう。


志村けん、志村けん、志村けん

何度も呟いてみる。


とことん突き抜け尽くす人生。それはそれは美しい!


3・11 あの日と今日 ~どうしようもないわたしと黄金の糸~

2020年03月11日 | キャリア
あの日から丸9年の年月が流れた。自分はどのように変化したのだろう。どのように成長できたのか。振り返るのには長くもなく短くもない。そんな時間だと思った。

あの日は広島にいて、かの忌まわしき揺れを直接感じることはなかった。しかしその後、ことの重大さとともに人の尊さや気高さ、優しさやあたたかさ、大きさを実感する日々を過ごした。

「何かできることはないか?」という思念の渦が西日本にいながらも社会に溢れ、そして自らの仕事でも実感することができた。日本人であることに誇らしさも覚えた。

あれから9年。昨日たまたま献血に行った。コロナウィルスで献血者が減っているとの記事を目にしたこともあり気になっていたからだ。

看護師さんにそのことを聞くと、イベントでの移動献血や会社等団体での献血車両受け入れが減っているため、特に400mlの献血が足りていないとのことだった。

あの日は震災、そして今日はコロナウィルス。いずれも日本社会を揺るがす大事件が起こっている。そして医療現場では、ある意味当時と共通の課題が存在するようだった。

一方自分自身に目を向ければ、それはあまりに激しい変化を遂げた。9年前に今のような仕事をしていることなど想像だにできなかった。

それは「成長」と言えるのかどうかはわからないが、あの日にはなかった自分がいることは確かだ。しかし、自らの課題がなくなったとは言えず、相変わらずの自分がいる。

成長に終わりはない。それどころか、まだまだできない自分、不甲斐ない自分、どうしようもない自分が生きている。

と、種田山頭火の句が頭をめぐる。

「どうしようもないわたしが歩いている」

しかしよく考えてみれば、この俳句は自己否定の意味だけとは言えないような気もする。どうしようもないわたしは、常にどうにかあろうとしてもいる。どうにかあろうとしている私だからこそ「どうしようもない」と感じるのだろう。そんな風に私は思う。

「どうしようもない」とはある意味「人生のテーマ」でもある。同じテーマで生きてきて、変えようにも変わらない自分がそこにいるというふうに捉えることもできる。

自分の課題は同じテーマでつながっている。それでもそれは同時に、意味ある人生を紡ぎ出す「黄金の糸」でもあるのだろう。

1985年1月6日から今日まで

2019年10月20日 | キャリア
平尾誠二さんが亡くなって3回目の命日だそうだ。奇しくもそんな今日、ラグビーワールドカップの4強を賭けた一戦が繰り広げられる。

もちろん勝ってはほしいが、そういったことは多くのスポーツジャーナリストが書いている。自分はこの経験を自分自身がどう過ごすかに興味があり考えてみた。

遡ること1985年1月6日、ラグビー大学選手権の決勝(同支社大学VS慶応大学)。開始6分過ぎにキャプテンで4年生の平尾誠二が華麗なステップを踏みトライを決めた。

そして激戦の末のノーサイド(史上初の大学選手権3連覇達成)。その瞬間、当時高校2年生だった自分の中で何かが動いた。

1年後に迫りくる大学受験、「自分はどうなるのだろう」という他人事の世界から、「いよいよ受験生だ」というロングスパートのモードにスイッチが切り替わっていったのだった。

時は再び今日10月20日の深夜、YouTubeで35年近く前の試合を観た。あの日から今日に至るまで、自分の中にいる平尾誠二さんの存在感を思っていた。

ラグビー界に自由な発想で新風を吹き込んだ彼を通して、「ありたい自分」を観ているのかもしれない。そんなことを考えながら過ごした夜だった。

1985年1月6日から今日までの時間を味わいながら夜を過ごす。なんと贅沢なことか。

農鳥小屋のオヤジとのこと

2019年08月04日 | たわいない話
今年のメイン登山が終わった。南アルプス白峰三山縦走(広河原~北岳・間ノ岳・農鳥岳~大門沢~奈良田)だった。山から下りてしばらく考えていることをテーマとしたい。

それは農鳥小屋におけるある「事件」のことだ。「農鳥小屋のオヤジ」が主人公。ネット検索で多くの記事が出てくる名物オヤジだ。「名物」というとよい響きだが、あまり好印象で語られない記事も散見される。

オヤジは「がんこ」「偏屈」「横柄」…や、小屋については「不潔」といった感じである。私は、今回ここを訪れるまで小屋の評判やオヤジの存在は全く知らなかった。

農鳥小屋を訪れたのは行程中たまたま通りかかったからだ。しかし、私は農鳥小屋に入る前に重大な課題を抱えていた。それは、その前に登頂した間ノ岳(3,190m)山頂付近にカメラを置き忘れたことだった。

気づいたのは農鳥小屋に着く直前。戻ろうにも体力が残っておらず、次の行程を考えるとそれ(戻ること)は考えられなかった。一方で万が一無くしたとしてもある意味「仕方ない」という諦念もあった。

何人かの登山者に声をかけ、もし見つかれば北岳山荘に届けていただくようお願いした。一方、農鳥小屋に届くことも想定されるため農鳥小屋の人に伝えねばと考えていた。

そんな中で出会ったのが「農鳥小屋のオヤジ」だった。私が到着したときは、他の登山者と話していた。耳が遠いらしく大きな声で。親しみを感じる話しぶりだったが、明らかに「ただものではない」オーラを放っていた。

私は宿泊客でもなく通りすがりである。カメラのことを切り出すチャンスを伺っていた。考えた挙句、何かを購入しそのついでにカメラのことをお願いすることにした。

そこで、「Tシャツはありますか?」と聞いてみた。以後オヤジとのやり取りである。

オヤジ :「あー、Tシャツ…、何枚か残りがあったかなー」(ごそごそ)
私 :「…」
オヤジ :「あー、これならある。2色しか残ってないな。」
私 :「じゃあ、こっちの色にします。」
オヤジ :「そうか。じゃあ、3,000円。」
私 :「はい。わかりました。。(支払う) …あのー、実は間ノ岳でカメラを置き忘れたようでして。」
オヤジ :「ん?」
私 :「もしこちらに届けばご連絡いただきたいんですけど。
オヤジ :「なに!そんなもん、お前自分で取りに行けよ!」
私 :「いや、私体力的に無理なんで、なんとかご協力を。」
オヤジ :「まぁ、置いてくるってことはたいして大事なもんじゃないだよなー」
私 :「はい。まぁ、出てこなくても仕方ないと思ってます。」
オヤジ :「じゃあ、メモに書いておけ。」

と、このようなやり取りとなった。

その後もいろいろとやり取りがあって、名刺の余白にカメラの機種名などを記入し手渡した。

このような「事件」の経緯である。

文面ではすべてを表現できていないが、結構辛辣なことも言われた。しかし、私が感じたことは言葉通りではなかった。それは「がんこ」ではあっても、そこには「正しさ」や「暖かさ」があった。

オヤジ :「うちの若いのが今日登ってるから、持って帰ってくれば連絡してやるよ。」
私 :「そうですか。よろしくお願いします。」

となり、農鳥小屋を後にした。

「農鳥小屋のオヤジ」は、私がそこにとどまっている間、登山者に対し盛んに天候のことを言っていた。そして「早く発て!」と。すると案の定、私が大門沢小屋に着くや否や雨が降り出した。

山のことを深く知り、登山者の安全を願いながら声をかけ、そして山の掟を逸脱した登山者には厳しく接する。それが「農鳥小屋のオヤジ」だったのだ。

私は、「ただものではない」と感じた第一印象から、「農鳥小屋のオヤジ」に強い関心を持った。自分自身のニーズ(カメラの件)もあったが、対話できたことが嬉しかった。

しかし、中にはあの独特の雰囲気や厳しい言葉にたじろぎ、敬遠する人もいるのだろう。彼らは、一歩踏み込まなければ味わえない強烈な個性の奥に潜んだやさしさや暖かさを感じることができないことになる。

おそらく社会全般においてもこのようなことが頻繁に起こっているのだろう。表面的な接点では見えてこない奥深さがどんな人にもある。そのことを今回の「農鳥小屋事件」を通して味わっている。

ところでカメラのことだ。私は、農鳥小屋に届く確率は高くなく、どちらかというと北岳山荘に届く確率の方が高いと考えた。下山後山荘に連絡しようと思った。また、持って帰る人がいればそれは仕方ないとも考えた。

奈良田の里に下山すると一本の留守番電話が入っていた。道中は携帯電話が通じないのだ。

「農鳥小屋です。カメラが見つかりました。仙丈小屋を管理する伊那市の職員の方が来てカメラをもっていきました。近々山を下りる用があるから送ってくれることになりました。」

若い女性の声だった。私には奥でオヤジの笑う顔が見える気がした。

私の社会性のなさから始まった「事件」だが、改めて人間の素晴らしさを思うこととなった。一方、オヤジにたじろがず(?)対話を楽しんた自分のことも考えた。この話、まだまだ自己の内部で楽しめそうなテーマである。

家族が泣いた日

2019年02月17日 | キャリア
ちょうど12年前、亥年の2月。我が家は衝撃に包まれた。兄妹が集められ、医師からの説明として告げられた事実。それは父の病状についてであった。

「余命半年」という情報とともに「急性骨髄性白血病」と「急性リンパ性白血病」のハイブリッドであるという説明を受けた。よくわからなかったが重大なことだとは覚った。

医師からの説明後、その場にいた父、妹、そして私はともに泣いた。しかし父は、その時にある意味人生の終わりを受け容れているようにも感じた。

抗がん剤治療を決めたという父に私は言った。

「かわいい孫たちの未来を見ることができないかもしれないが、生き様と死に様を見せてやってくれ。」と。

父はその約11か月後、余命宣告の翌年1月に逝った。命の終わりを受容し、覚悟を決めて引けていく命、それは美しいものであった。

あの2月から干支が一回り。今度は世界が衝撃を受けた。若き水泳界のホープである彼女のニュースに絡み、各界を巻き込む大騒動となっている。

父と異なるのは、この間の医学の進歩と、まだ若く骨髄移植が可能であるという状況である。トップアスリートとしての復帰がベストだが、まずは完治を目指してもらいたい。

父の闘病で学んだことは、衝撃的な経験は人を成長させるということだ。当の父は圧倒的な「悟り」を見出した。家族も命について・生死について考え成長できた。

成長とはすべてをソツなくこなし、スピード感を持って何かができるようになることではない。成長とは受け容れることである。

運命を受け容れた先に真の自由がある。トップアスリートの未来に思いを馳せ、彼女の自由を祈る日々を過ごしている。