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ゆとり世代

2017年04月05日 | 社会派らぼ
「差別」をしてはいけない…という事は、誰もが知っています。私たちはそう言われて育ちますし、機会あるごとに「人権」といった冠をつけての集会が持たれ、差別は許されないと習います。昨年の5月には「ヘイトスピーチ対策法案」が可決・成立しています。人種差別的な発言は、この「ヘイトスピーチ」に当たるか否かという法律に照らす判断をすることになります。

ですから、分かりやすい「差別」を私たちは封印することができるようになりつつあります。けれど、「差別」と気づかない「差別」もありますから、…だから国民学習課題なのかも知れません。

戦後、日本の教育は世の中の技術発展についていける人材育成を目指し、学習内容を増強していきましたが、いつしかそれは「詰め込み教育」ではないかという批判が大きくなってきました。子どもに生きる力、ゆとりを持たせるといった観点から、教育内容を見直す機運が生まれ、いわゆる「ゆとり教育」というものが実施されるようになりました。小学校では1980年度から2010年度までの間に実施された教育を「ゆとり教育」などと呼ぶようです。

私は「ゆとり教育」という視点は間違ってはいなかったと、今でも思っています。教育に「ゆとり」が欠如していたのは事実で、ただ教育現場の理解が甘く、その欠けている「ゆとり」を単純に「時間」だと解釈したところに間違いが生まれた気がしています。「ゆとり教育」の間に展開された教育には時間的なゆとりを目指す根拠はあっても、人間としてのゆとりを目指す「ゆとり」が無かった事が間違いだったのだろうと思っています。

とにもかくにも、その間に実施された教育は、やはり不十分であった…という反省から、以降は再び授業時間数などが見直されています。そこで、その間に学校を巣立った人たちを「ゆとり世代」とラベリングする傾向があります。一般に「現実に対峙する力が低い」といった評価をする人が多いのですが、この「ゆとり世代」と称するのも、立派な差別の一つのように思えるのです。「あぁ、やっぱりゆとり世代だから…」「ゆとり世代は、これだから…」等々、職場で耳にする言葉だったりもします。

例えば、いわゆる「ゆとり世代」に、実際に欠けているものがあるのだとしても、それは「ゆとり世代」の責任なのではなく、「ゆとり教育」を実施した国側にあるのだという事を忘れてはなりません。更に、その期間に教育を受けたからまるでダメのようなニュアンスが強いのですが、それは個々人によって異なるものであるはずです。

差別はダメ!というくせに、「ゆとり世代は…」という決めつけは、差別だと考える人は少ないのでしょうか。あれをしてはいけない、これをしてはいけない…と、してはいけない事を学習することは大切な事かも知れません。が、自分が何のために生きているのか? 何のために生きたいのか? と言った問いに答えることこそが、他者の生きる意味をも理解し、差別がなくなる近道のような気がします。

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