原点回帰

日常そのものがスピリチュアル。普段の生活の中からスピリチュアルなことを綴っています。

悟りは体験談

2016-10-16 20:36:31 | 悟り
悟りのことをとやかく書いていますが、悟りって何なのですか?
と聞かれても、毎度どのように言えばいいかと思います。

というのは悟りの内容というか悟りの意識そのものを正面から説明しようとするのは無謀というか徒労のように感じるからです。
なぜなら、あまりにも膨大すぎて無限に言葉を並べても説明しきれないのです。

エネルギーワークなどしている方はお分かりかもしれませんが、流れてきたエネルギーの光そのものを言葉で説明しようしたらどうなるでしょう。
客観的な表現は可能ですが、それそのものの表現は難しいのではないでしょうか。
悟りの意識もエネルギーワークに似ているのですが、少し違うように感じています。

少し脱線しますが、この辺は仏教の経典がよく表していると思います。
つまり、現実世界の幻想や無常感を延々と「ない、ない、ない・・」と長々説明するか、あるいは、「そんなもんない」といってアッサリと一言で片づけてしまうかです。
ちなみに前者は「大般若経」などの般若経典、後者は禅宗の典籍の中によく表れています。

また別の表現方法もあります。いわゆる現実世界の現象を「ない」と否定するのではなく、現実に起こっている現象そのものをあるがままに肯定する、「あるがままに在る」「あるがままに真実」というアプローチ。
いわゆる「あるがままに・・」「すべては源の現れなのだから・・」こちらの方が今風かもしれませんね。
こちらはあえて御経でいうなら「般若理趣経」がイメージに近いと思います。
ついでに「華厳経」などは仏教的悟りの世界観を上手く表現しているように思いますが、これもあまりに長大です。(ちなみに「御経」というツールを薦めているわけではありません。私なりのたとえです)

やがて仏教では悟りを言葉ではなく体験で悟ることがトレンドになってきます。
いわゆる密教や修験の山岳修行、鎌倉期の座禅、念仏三昧、お題目などもそうかもしれません。
言葉ではなく体験を重視していきます。

仏教の御経をいくつか見ていると、いわゆる「仏」という存在は悟りの中味そのものを自分から表現していないように見受けられます。
つまり、弟子達や周囲の人々から質問を受けて答えていく、いわゆる問答形式になっているのです。
相手の質問があって(機会に応じて)、そこから悟りの中身に入っていくという感じです。

自分の経験からもそのように思います。
自分から説明しようとしても伝えようがないのですが、相手からの質問や言葉などのきっかけがあると相手の波長に合わせるので話しやすいのです。
でも、これはあくまで言葉で説明しようと試みた場合の話です。

ついでにチベット仏教の中でダライラマが所属するグループでは、仏教の「空」は説明できないものとして、それを説明しようとするものをことごとく否定していくという手法(帰びょう論証派)です。
つまり存在しようもないものを説明なんてできないというわけです。

結局、「悟り」そのものは誰も説明できないものと思います。

伝えられるのはその人の体験なのです。

だから悟りを知りたければ自分で悟るしかないのです。

ブッダの悟りはブッダと呼ばれた方の体験話なのです。

イエスの悟りはイエスと呼ばれた方の体験話なのです。
            
「悟りました」という人がいれば、私は悟りというものをこんな風に感じましたという、その方の体験話なのです。

ですので悟りを語る人がいたとしたら、その数だけの体験談が成立します。

元は一つなのですから当然といえば当然ですね・・


最後までお読みくださりありがとうございます
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