フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

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ショーペンハウアーと読書 SCHOPENHAUER ET LA LECTURE

2006-01-05 21:06:23 | Schopenhauer

昨日はパスポートの更新に出かけた。正月からものすごい人出で、午後が完全につぶれてしまった。このような状況になっても最近は全く苛立たない。むしろ、お陰様でショペンハウアーの 「読書について」 を読み終えた、と言えるような境地に至っている。

相変わらず辛らつな面が至るところに見える本書も、あっという間に読み終えた。本だけ読んで一生を暮らす学者、哲学研究者を罵倒し、現実の世界を読み、自ら思索する人を賞賛している。考えるというのは待たなければならない、その時が来るのを。考えようという意志があっても駄目のようだ。これは全く納得である。あるとき突然、思索が自然に流れ始めるのだ。自分の頭から出てくるものでなければ身につかない、新鮮ではない。

読むのはよいのだが、読みすぎると人の頭で考えることに慣れきってしまって危険だという。権威になびかない、自分自身が真と認めたものだけに頼る、そういう独立の精神が大切。自分自身のために思索した思想しか価値はない。「独立の思索者」。思想家と思われることが目的で、その名声に幸福を見出そうとするソフィストは糾弾の対象。書く対象のために書く人と書くために書く人との間にある大きな溝を見逃さない。

新刊書を追い求める人々を諌め、古典に集中せよという。学問がそんなに進歩することはない、真理は昔にすでに発見されている。現代の著述家は生存のための相互依存の機構を上手に編み出している。そんなものに操られる必要はない。それに関わっていれるほど人生は長くない。今も昔も変わらないのかという思いと、本屋に溢れる本の中で読むに値するものがどれだけあるのか、という思いに至る。彼の言うところは、ほとんど理解できる。今までとは違って、実行しなければ、という気持ちになるくらいに。


それにしても、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルは罵倒の対象以外の何物でもない。ヘーゲルに対する感情はすでに理解しているのだが。

曰く、「フィヒテやシェリング、ヘーゲルのように知らないことを知っているように偽装したがり、考えも言いもしないことを、考えたり言ったりしているように見せかけたがる。」

曰く、「つまらないことをわずかしか考えていないのに、はるかに深遠なことをはるかに多量に思索したかのように見せようとして懸命である。したがって彼らはその主張を表現しようとして、不自然、難解な言いまわしや新造語を、だらだらとした文章・・・を使う。・・・時にはこれ、時にはあれといろいろな手法を試み、精神をよそおう仮面としてそれをつけてみる。・・・ドイツにこの仮面を紹介したのはフィヒテであり、シェリングがそれを完成し、ついにヘーゲルの力でこの仮面は流行の最盛期をむかえた。」

曰く、「人類の知識の進歩を、惑星の軌道になぞらえて考えるのが得策である。人類は、めざましい進歩をとげると、その後まもなく、ほとんど決まったように迷路に陥る。(その迷路を周転円になぞらえた後) さてこのような周転円の一例は、フィヒテが始め、シェリングがうけつぎ、最後にヘーゲルが戯画化して仕上げた哲学である。」

曰く、「フィヒテ、シェリングの哲学は、哲学史上その比を見ないこのみじめな似而哲学の先駆をつとめたが、・・ついに信用失墜の憂目を見ることになったのである。」

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