八国山だより

ノーサイレントマジョリティ!ごまめの歯ぎしりといえど、おかしいと思うことはおかしいと自分の意思を発信しなければ

映画「シン・ゴジラ」を観てきた

2016-08-31 13:00:15 | エンターテイメント
 元々はこのようにスペースを取って著す気はなかったのだが、ある事情から、また140文字では言い足りなかったこともあったので改めて記すことにした。

さる方のツィートを引用して次のようにツィート。

 この方は大絶賛のようだが個人的には落第点。平和への祈り、反戦といったものが感じられず1954年版のゴジラとは比ぶべくもない。今の日本の現状を見るにつけ若手官僚、政治家の動きは楽観的すぎ願望としか思えない。 https://twitter.com/hironobutnk/status/769043874635456512 …

するとこの方からはブロックされるは、別の方から次のようなコメントを頂戴した。

 「お前が落第点を出しても何の問題もないので安心してください」(8月27日)

 思い返してみれば何も引用してツィートすることもなく、この方には申し訳ないことをしたと思う。が、一方ではブロックまでされるということはよほど痛いところをついたのかもとも思う。ネットでざっと見る限り高評価をされている方が多いようだし、自信があれば<こいつ、分かってないな>とか<ま、そんな考え方もあるか>と聞き流すのが大人の対応だと思うが、このような反応を示すということは…。

 さて、この映画を観て強く思ったのは、ゴジラの物語ではなく政治劇とでも言うか未曾有の危機に対して行政(新旧の官僚や政治家)がどう対処するかその人間ドラマでありゴジラは主役ではなく脇役にすぎなかったのではないかということ。あの巨大生物がゴジラでなければならない必然性はあったのか。ま、所詮は一個人の感想に過ぎないが。

 また、ゴジラは人間の知恵の及ばない、生物の常識を越えた不滅の存在だったはず。人の知恵によって凍結されてしまっては、ゴジラのゴジラたる所以が打ち消されてしまう。これまでのゴジラの映画では一度は倒されてもエンディングでは心臓が再び鼓動し始めるなど不死の存在だった。今度の映画でもそのような徴候が盛り込まれているのかと期待したがそれはなかった。その点はがっかりした。同行した知人曰く「次回作を考えるのが面倒だからじゃない?」と。ゴジラ=原発ならば別の見方もできるが。

 エンディングと言えば、本編ではまったく使用されていなかった伊福部昭氏のゴジラのテーマ曲が一斉に流され、とってつけたような感じで違和感を覚えた。

 アメリカが核兵器の使用を迫るのをフランスの協力を得て間一髪回避できたが、1984年版ゴジラでは小林桂樹扮する三田村首相が非核三原則を根拠に米ソからの要求を拒んでいた。非核三原則どころか核兵器の使用も厭わない現政権下では、虚構といえどそれは使えないと判断したのだろうか。

 とりとめのない文となったがギャレス・エドワーズ氏は2014年版の続編の監督からは降りたとのことだし、今後はどうなるのだろうか。

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